「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:9)
神さまはイザヤを通じて「平和の王」が来ることを告げます。その王は「エッサイの株から」(イザヤ11:1)来られると言われています。讃美歌21の248番で歌われている通りです。
エッサイとはダビデ王の父です。「主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」(サムエル上16:1)。この時まだイスラエルの王はサウルでした。つまり、王が健在なうちに新しい王に油を注ぐわけですから、そのこと自体王に知られたら王国は揺らぎます。誰にでも想像がつくことなので預言者サムエルは神の申し出を断ろうとします。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」(同2)。しかし神はダビデを見出してダビデを王にするのです。もちろんサムエル記のこの記述はダビデシンパの人間が書き下ろした物語ですから、アンチサウルになるのはしかたがありません。だから神がダビデに固執するのも、ある程度割り引いて考える必要があります。
そうまでして無理矢理にダビデは王とされた、正確に言えばおそらくダビデの王位の正統性が疑われる中で、その正統性を何としても主張する必要があったのでこういう物語になったのかも知れません。そのダビデはよく知られているように戦争に明け暮れた王でした。つまり力をもって神の御心を実現しようとした、力の権化です。
力は当然のようにそれに抵抗する力を生みます。ダビデの王国はやがてその息子の代になって分裂を引き起こし、その末に軍事大国によって滅ぼされるに至ります。その時代を預言者として生きた第1イザヤは「軍事力を誇ってはならない、他国との同盟にも頼ってはならない、ただヤハウェに信頼せよ」と呼びかけますが、世界史的な動揺の中で人々も指導者もそれを聞き入れることはありません。預言者にはもはや王国の滅びが確実で、そうなることが見えている。しかしイザヤはその絶望の中でもなお希望の光を見出す。それが預言者の宿命なのかも知れません。イザヤは絶望的な時代の中で、理想の王による新しい時代の到来を告げます。理想の王は苦境に立たされているイスラエルを敵以上の力、軍事力によって救う王ではなく、神への完全な信頼に基づく正義と公正を行うことによって時代と国を導く王です。そのように告げられています。この地球上に人類が誕生して以来、正義と公平によって導かれる国というのはひょっとしたら一度も、一回もなかったのかも知れません。それほど「正義と公平」は人々の、とりわけ弱い人々の祈りであり願いだったのでしょう。イザヤが描く「新しい時代」とは弱い人の祈りと願いを聞き入れてくださる王によって導かれなければならない、というのです。
「エッサイの株」という言葉は人々に明らかにダビデ王を連想させるわけですが、イザヤが語る「平和の主」はダビデとは全く違い自らの力を誇りません。「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する」(イザヤ11:4)王です。しかも勇壮な武将の姿ではなく幼子の姿として描かれています。しかもそこに描かれている世界は、現実に今わたしたちに与えられている世界とはまるで異なります。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち」(同6)「牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう」(同7)「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(同9)世界です。見たことのない世界ですよね。にわかには信じがたい世界です。ひょっとして天国かあの世でしょうか。いや、そうではない。わたしたちが生きているこの現実の世界が「正義と公平」によって導かれるときに、そういう世界が開ける。その世界が来ることをわたしたちに信じさせようとしているのでしょう。
その世界へとわたしたちを導いてくださるのが「小さい子供」(同6)だ、とイザヤは宣言します。わたしたちは普通子どもに導かれるなんてことはありません。子どもとは常に不完全な存在であって、あるいは未完成な存在であって、だから正しく育てられなければならないし、そのためには多少行き過ぎた躾だったとしても許される。それがいわばわたしたちの常識です。でもイザヤは違った。だけじゃなく、パウロも語っています。子どもという言葉は出てきませんが、自分たちのことを不完全ではなく完全とか未完成ではなく完成と自負している者についてパウロはこう言います。「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(1コリント1:28)。これが神の選びなのだとパウロは言っているのです。神はわたしたちの常識とは違うモノサシを持っておられる。そしてそのモノサシは厳格に人々をはかります。
平和の主をお迎えするために、それぞれが備えているアドヴェント。神さまがわたしたちを導こうとされているその世界に向かうためには、わたしたちが重ねてきた歴史をさらに積み上げることではどうしようもないのです。そうではなく、神によって全く新しく作り替えられる他はない。この地球上に正義と公平によって導かれる国が歴史上一度も、一回もなかったのであれば、わたしたちの経験とか知識とか知恵では、新しい世界を開くことはできないのだと、イザヤは教えているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたち人間の経験とその延長に素晴らしい未来や素晴らしい世界が開かれるのではないことをイザヤはわたしたちに伝えます。わたしたちの思いもしなかったようなかたちでしか、新しい世界は現れないのです。その新しい世界を導く平和の主は、飼い葉桶の中に無数の赤ちゃんとして今ここにいます。これこそがあなたの与えられた平和の主であると信じることが出来ますように。平和を求めて声を挙げてはつぶされ殺されていく多くの人たちと、神さまあなたはいつもいっしょにいらっしゃいます。そのことを信じて、あなたの示す側にこのわたしの足を踏み出すことができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。