先週、「キリスト教保育を標榜する幼稚園・保育園・子ども園をはじめキリスト教を母体とする事業はあらゆるところでクリスチャンの人材難で、それが「問題」にされたりもする」と書いた。実際は「問題」とするほど勢いはなくてせいぜい「嘆き」止まりなのだけどね。
一方で、昔キリスト教社会事業同盟の総会に出席したとき、テーブルを囲んだ施設長たちが「クリスチャンならば安心、なんてことはない」と真顔で話されてもいた。「同信なら安心」としたいところなんだろうが、実際そうではないのが現実。
ということは大雑把に言ってその人の属性がそもそもあまり当てにはならない──良い意味でも悪い意味でも──ということ。当たり前のことだよね。であればなおさら「クリスチャンではない人たちによって担われるキリスト教保育には、だからこそ意義がある」ということを本気で信じることが求められているのだろう。「あわよくば洗礼を受けて!」なんてタダのシタゴコロだね。
松井和さんが講演で仰った。「日本は祈りの国だ。なんせ暴走族が『お守り』をつけたバイクで初日の出を見に行く」。会場は大爆笑。だけどなんとなくその心理はわかるよね。「七五三に神社に行きチャペルで結婚式を挙げお寺で葬式を出す」のを揶揄してはいけないな。やはりわたしたちには祈りの心──自力でないものへの畏れ──が備わっている、その表れなんだ、きっと。
教会(キリスト教界)が低迷しているのは、たぶんそんな普遍的祈りの心を嘲笑し続けているくせに、自分のところに取り込むほどに魅力を磨いてこなかったこと。とにかく「教会」という組織を維持することだけが命題になっちゃって、素朴な「祈りの心」を持つ人をなおざりにした。その人の「祈りの心」が見えなくて「入会」させることだけに拘った。つまり会費=月定献金が重要って、今問題の「旧○○協会と変わんねー」って言われちゃうね。
子どもの円らな目は、そこを射貫いているのだな。