創世記9:8−17/ローマ5:12−21/ルカ11:33−41/詩編1:1−6
「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(創世記9:11)
創世記は神さまがその意志によって世界をおつくりになったということから物語を始めます。「神は言われた」(創世記1:3)というとても印象的な言葉から始まり、次々に命じられるとそれが出来上がってゆくさまが続きます。第1の日から始まって第6の日が終わる。それが創世記第1章です。
第2章の冒頭は7日目のことが書かれ、これが安息日の始まりとされます。そして人の創造にまつわるもう一つの創造神話が書かれます。
第3章はつくられた男と女が誘惑に負けて、神の命令にそむく様子が書かれます。その罪の結果人間は労働によって食料を得なければならないと定められ、それが自分のいのちが土に帰るまで続くとされます。ここから、罪の結果が死であるということになったわけです。
第4章は最初の殺人事件です。兄が弟を妬みから殺すという事件が詳しく描かれます。3章に書かれたように、人は神の意志にそむく存在であることが明記され、その行き着く果てに共に生きる者を殺すまでになったということでしょう。「人が独りでいるのは良くない」(2:18)と神が決断して与えてくださった隣人を、人は個人的理由でいとも簡単に殺してしまう。わたしたちはそういう存在なのだとすべての人間が気づく必要があります。
しかし同時に神は弟を殺したカインに「だれも彼を撃つことのないように」(4:15)特別なしるしを付けられます。そのしるしは「カインは弟殺し」という消し去ることのできない罪を表すと同時に、そのしるし故にだれもカインを裁くことができないという、相反する二つのことを同時に彼の上に成し遂げる、まさに特別なしるしでした。そのしるしこそ、神が愛であるということをわたしたちに示している。わたしたちはみな神によって特別なしるしを刻まれた一人なのです。
続く5章は、神によってつくられた人間が犯す究極の罪にもかかわらず、神によって特別に守られた者たちの系図が書かれます。その系図の最後に登場するのがノアです。
第6章からは洪水の物語です。神はご自分が創られたすべてをこの洪水によって滅ぼす決意をなさった。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」」(6:5−7)。ここまでの創世記の記述を丁寧に辿ってみたら、神がここでいとも簡単に、まるで戯れるかのように気まぐれに、ご自分が創ったすべてを滅ぼそうとなさっているのではないことに誰でも気づくでしょう。神はご自分に死を宣告するがごとくに世界を滅ぼす決意をなさったのです。その神のあふれる愛がノアとその家族に結集している。「しかし、ノアは主の好意を得た。」(同8)。
選ばれたノアとその家族にとってはあまりにも厳しい選びだとわたしは思います。箱船を造っている間の人々の嘲笑など全く気にならないほど、この家族に課せられた課題、担わされた現実は重く厳しいと。だからその水が引けることを待ちわびた。早くこの状態から解放されたかったのだろうと想像します。
神が閉じられた箱船の扉が再び開いたとき、目の前に虹が架かっています。その虹は、神が「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(9:11)という契約でした。
わたしが思うに、創世記の物語はここで完結しているのではないでしょうか。世界をお創りになった神が、創られたすべてをもう一度滅ぼす決意をなさり、それを実行した後、再びつくられたものとの関係を新たにする。再創造、関係のつくり直し、そのしるしとしての虹。
しかしわたしたちはあの虹の後も、神を悩ませ続けている。虹によって神が何度も何度も思いとどまっている。待っている。わたしたちが、造られた側の人間に過ぎないわたしたちが、神さまをそういう状態に閉じ込めているのです。しかもそういう状態に居座り続けるわたしを救うために、神さまは救い主をわたしたちに送ってくださる。だから救い主を通ってしか、その道以外にわたしたちは神さまとの関係を、わたしたちからつくり直すなんていうことはできないのですね。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。契約の虹を空に架けてわたしたちを二度と滅ぼさないと誓ってくださった神さまを、わたしたちはそれ以後何度も何度も裏切り続けています。今なお地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのです。しかし神さま、神さまはご自分の誓いを決してお破りにはなりません。そのあなたの決断故にわたしたちは今も生かされているのです。だからこそ生かされている意味を知り、小さくつたない歩みながら、あなたを召さしてあなたの方へと歩みを向け直すことができますように、導きとお守りとを与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。