イザヤ25:1−9/黙示録7:2−4,9−12/マタイ5:1−12/詩編146:1−10
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」(ヨハネの黙示録7:12)
今日の礼拝は聖霊降臨節第20主日です。私が四谷新生教会で説教するときは、日本基督教団の「新しい教会暦」によって選ばれている詩編交読と旧約・使徒書・福音書の4つが読まれます。そのうちでも今聖霊降臨節ですが、この期節の中心聖書は使徒書です。一年で一番長い聖霊降臨節が今日・今週で終わり、次週10月23日から新しい教会暦は「降誕前節」に入ります。降誕前節は基本的に旧約聖書・預言書が中心聖書になります。
そういう訳で本日の中心聖書は黙示録でした。黙示録は27巻ある新約聖書の中でも少し毛色が違っていて、最初から「難しい」と決めつけられやすいですね。確かに難しいと感じるのは「黙示文学」というジャンルがそもそも馴染みがないし、わたしたちの日常につかう必要がほとんどないし、それゆえに「黙示」自体に意味がないと思うから、遠い存在になっちゃっているのではないかと感じます。少し聖書を知っている人にとっては「黙示録」と聞いただけで「難しい」と即答し、開くこともない…なんていう人もいます。どちらかというと私もそのひとりです。
でも逆に言えば、今日お読みいただいたヨハネの黙示録は、この時代に「黙示文学」という手法を使わなければならなかった必然があったということでしょう。その必然が分かれば、「ヨハネの黙示録」=「難しい、取っつきにくい」が多少は解消されるのではないかと思います。
ヨハネの黙示録は大体紀元90年から100年頃に書かれたと考えられています。「ヨハネ」というのが大昔2世紀頃の伝承ではイエスの弟子であったゼベダイの子ヨハネと考えられていましたが今日の学者は誰もその説を取りません。しかし著者が誰であれその人は権威ある説教者・伝道者として小アジア地域諸教会で活動した人であることは間違いなさそうです。
この時代はドミティアヌス帝の治世末期です。ドミティアヌスは皇帝でありながら死後「記憶の抹消」という処分を受けた歴史上二人しかいない人です。「記憶の抹消」とは自らが遺したあらゆる痕跡を抹消されるという処罰です。名誉を重んじるローマ人にとっては一番厭なことでした。ドミティアヌス帝はあまりにも暴虐な皇帝で、ユダヤ人やキリスト教を迫害したことでつとに有名です。もちろんローマ人にとっても帝国にとってもその暴虐が激しかったので、最も不名誉な処分を受けることになった皇帝だったと言うことでしょう。
そういう時代に皇帝礼拝を強要する小アジアでキリストを礼拝すること自体が命の危険に及ぶことは想像に難くありません。対立のさなかで皇帝礼拝を強要する側を実名では書けない。さらに人間が直接知りえない神の意志を人間の言葉で言い表そうとするとき、必然的に黙示録はシンボルを用いて書かれなければならなかった。それが「黙示文学」で、現代のわたしたちにはファンタジーか壮大なスペクタクルにしかうつらない記述で埋め尽くされているわけです。
そういう事情を背景に考えるとき、黙示録がわたしたちに伝えたいことは、わたしたちが生きているこの歴史には始まりがあって終わりがあるということ、しかもその歴史は始めから終わりまで神の御手の中にある、ということだと集約できます。神によって始められ神によって終わりがもたらされるのです。たとえ諸侯の繁栄がめざましくても、それには時があり定められた終わりが来るのです。
お読みいただいた第7章は、最後の第7の封印が解かれる前に、神の民は神によって守られるということが書かれています。困窮と混乱の極み、最後の封印が解かれる直前とはそういう状況を指すのでしょうが、その困窮と混乱の極みであっても、玉座と小羊を礼拝する者たちを神は守られるのです。
その壮大な礼拝の様子が9節以下に描かれています。「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」」。今、わたしたちの生きているこの時代、この場所で、神をあがめる礼拝に集っているわたしたちは、描かれているこの群れと共に主を賛美するハーモニーを響かせる一群として、玉座と小羊の前に立っています。わたしたちは目に見える教会としてだけではなく、黙示録に書かれている群れと響き合って、時代を超えて今ここに存在しているのです。それはわたしたちの業績やわたしたちの栄光によってではなく、小羊の完全性によってそれが可能にされているのです。
わたしたちの困難の現実はすべて神の御手の中にあります。ただ一人で思い悩む必要はないのです。小羊が「共に担う」と仰っておられる。それを信頼できることが、私たちを活かす力となっているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちはあまりにも短い人間の生涯が、まるで世界の歴史のすべてであるかのように思い、その行く末にいつも不安を覚えるのです。しかし、わたしたちは神さま、あなたの定めた歴史の小さな一部分を担って生きているに過ぎないのであって、あなたが歴史を司るかぎり、あなたの勝利にわたしたちも連なることが許されているのだと知りました。感謝いたします。天上であなたに捧げられる礼拝にわたしたちも響き合って連なっていることを憶え、それぞれのいのちを生き切ることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。