列王上21:1−16/ガラテヤ1:1−10/マルコ12:35−44/詩編119:73−80
「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:8)
先週はコリント教会の問題を見ましたが、今週はガラテヤ教会での問題が取り上げられています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6)というパウロの言葉がすべてを教えてくれます。ここでも問題になっているのは異邦人に対するユダヤ化の強制です。恵みによる福音ではなく律法実践、ことに割礼の実施による恵みの獲得という考え方をパウロは徹底して否定しているのです。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく」(同7)という言葉が、「キリストの福音を覆そうとしている」とパウロが語っているグループの実態です。イエス・キリスト以外に福音はないのであって、彼らがやろうとしていることは反キリストの目論見だけだということです。
先日東北教区が主催する「カルト問題研修会」に神奈川教区・西東京教区・東京教区でこの問題に取り組んでいる仲間と参加しました。テーマは「信仰継承〜なにが問題なの?〜」。今テレビや週刊誌などで問題になっているいわゆる「信仰二世」のスピリチュアル・アビューズ(宗教的虐待)について実態調査の結果から考察する発題を聞きました。
「信仰継承」という事柄は、わたしたちキリスト教徒にとっては──あくまで信徒側から見た場合ですが──大事な課題であり一つの目標でもあります。それがうまくいくことが信仰者にとっては大事なことだと普通に考えるわけです。しかし、例の事件の山上容疑者がそうであったように、物心ついた時既に両親(母親)が宗教にのめり込んで、すべてのことがその宗教の教えを基準に判断され、しかも極端に教祖や指導者による独裁的指導体制が敷かれているが故に、信者の子どもには自分で考える自由がないという実態をどう考え、どうケアしていくのかを考えるのが今回の研修会だったのです。
あらゆることが、うまくまわれば教祖様のお恵みの故であり、うまくまわらなければ自分の信仰が弱く未熟な故だとされてしまう。そういう二分法が精神世界以上に現実世界で力を持つのです。それがマインドコントロールの中味ですね。教祖・指導者と信者の関係がそういうように独裁的な中で支配・被支配の関係であればあるだけ、信者の家庭においても親子関係が独裁的な支配・被支配という力関係に置き換わる。そうやって育ってきてしまったら、単にその宗教を脱会すればすべて解決するわけではありません。子どもの心の拠り所を再構築する必要があるのです。虐待を受けて育ってきた子どもがそれでも虐待する親を求めてしまうのは、それ以外に心を寄せる場所がないからです。それと同じことが宗教二世にも起こっているということでした。
これはわたしたち、カッコ付きの「正統」キリスト教にとっても大きな問題提起だと感じました。自分の子どもを宗教的に導くにあたって、スピリチュアル・アビューズ的な手法を用いてこなかったか、十分に顧みる必要があると思いました。「わたしたちは『正統キリスト教』だから問題がない」という言い訳は通用しないのです。
一方、ではどうしてわたしたちは簡単にカルト的なものに捕まってしまうのか、あるいは「正統キリスト教」でありながら、カルト的手法を用いてしまうのか、それも十分に白日の下に晒される必要があると思います。それを考える時に、このガラテヤの信徒への手紙は大きなヒントを与えてくれると思うのです。
つまり結論から言えば、わたしたちだって時々「キリストの恵み」から「ほかの福音に乗り換え」ている。しかも「別の福音があるわけでは」ないのに、ということです。
ガラテヤ書でパウロが論敵とした者たちは、キリストの福音だけでは十分ではないと主張したわけです。「それだけでは十分ではないから、完全になるために割礼を受けなさい」と。それと同じ心理がわたしたち自身にも強く働いているのではないか。キリストにもっと忠実であるために、とか、もっと信仰深くなるために、というもっともらしい理由を付けて、既に与えられているキリストの恵みに、さらに何かを付け加え、付け加えなければ足りないと思い、当然付け加えることの方がキリストの福音より上位に置かれる。そういうことをわたしたちも案外普通にやっちゃっているのではないか。
イエス・キリストの福音はそれだけで完全であり十分なのです。もっと完全になるために、もっと完璧になるために、もっと強くなるために、何かを足さなければならない、なんてことは全くないのです。
もちろん福音をタダで戴いたのではもったいなさ過ぎるから、戴くにふさわしい者になりたいと願うことはアリでしょう。そこにいわゆる「キリスト教倫理」があります。でもそれはあくまでも、完全な福音を戴いたことが先ず先行している。既に戴いているという事実が一番最初で一番大切です。戴いちゃったからふさわしい者になろう、という順序です。
それが逆になったらカルトなのです。「あなたは福音を戴くのにふさわしくないから、ふさわしい者にならなければいけません。そのためにもっと強い信仰を持て、もっと完全な信仰を持て、持ち物をすべて売り払って献金しろ。それはわたし(教祖/指導者)が命じているのではありません、神の声です。」。こう言い切ることが出来たらわたしも立派なカルト教祖です。そして残念ながら「正統キリスト教」の中でも様々に理由を付けてこういう手法が採用されている現実がある。今こそパウロの言葉に耳を傾ける必要があるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたは恵みを受けるのに決して十分ではないわたしを選び、導いてくださいます。それはただ神さま、あなたの意志で進められているのです。わたしにはそれに応える何も持ち合わせがありません。だから、あなたが与えてくださることをすべて受け入れることが出来るよう導いてください。いつの日にか、あなたのお恵み、あなたの導きにふさわしい者となることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。