※本日は特別礼拝のため音声ファイルはありません
マタイ10:34
四谷新生教会のみなさん、おはようございます。長尾有起と申します。私は大学時代からずっと、この四谷新生教会が属する北支区の教会にお世話になってきました。神学生、伝道師の時代を北支区で過ごして按手を受け、2015年からは北支区の方々に支えていただきながら、日本基督教団から派遣されて韓国で7年間、ミッションコーワーカー(いわゆる宣教師)として過ごしてきました。そしてこの3月に帰国したのですが、この四谷新生教会から歩いて15分くらいの千代田教会に籍を置きながら、北支区内のいくつかの教会で日曜日毎にお話をさせていただいています。ですから、今日このように北支区の四谷新生教会でお話ができることを大変嬉しく思っています。
さて、今日の聖書の箇所としてマタイによる福音書10章34節から39節を選ばせていただきました。イエスはこのように言われます。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」この箇所は、新約聖書の中でかなり異質なものであるとお感じになる方もいらっしゃるのではないでしょうか。この箇所で重要なのは、敵対することそのものではなく、だれとだれが敵対するのかということです。最初の<人>というのは、息子と読み替えた方がより分かりやすいでしょう。「息子をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。」これは単に、一つの家族の中でそのメンバー同士がいがみ合うということを意味しているのではありません。当時のユダヤ社会の中で、家族という単位は非常に重要で動かしがたいシステムでした。そしてその家族は、家父長が絶対的な権力を持つという構造でした。その中で、息子が父に、娘が母に、嫁がしゅうとめに敵対するというのは、家父長的な権力システムの中で、下に置かれたものが上にいるものに対して敵対する、抵抗するということを表していると読むことができます。
ユダヤ教の根本的で絶対的な戒律である十戒のうち、その第五戒は「あなたの父母を敬え」です。これが第六戒の殺してはならないという殺人の禁止に先立っています。もちろん、十戒が順番にしたがってだんだん重要度が下がってくるというわけではありませんが、それでも第一戒が「わたしのほかに神があってはならない」ということですから、この順番にある程度意味があると考える方が自然でしょう。そして今申し上げたいのは、両親を敬うということがそれほどまでにユダヤ社会で重要であったということです。そのような社会の中でイエスは、息子を父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに敵対させるために来たと宣言しました。ですから、繰り返しになるようですが、これは一つの家族の中で起こる個別の喧嘩、例えばわたしがわたしの母に個人的に刃向かうというようなことではなく、家族の中の権力関係を壊すことを意味します。ユダヤ教への戒律への挑戦、つまりはその戒律に基づいて作られた社会通念への挑戦であるわけです。
さらに、その家父長的な三角形・ピラミッド型の権力による支配構造は、それぞれの家族の中だけで完結しているのではなく、ピラミッド型の権力構造の社会があって、その相似形の縮図として家族という単位があるのです。これは家族と社会のピラミッドのどちらが先かということよりも、同じ形を維持することによって、互いに補完しあっていると考えた方がよいでしょう。ですから、その小さい方のピラミッド、家父長的な家族システムを壊すということは、引いてはその社会全体の権力構造を壊すということにつながるのです。
このようなイエスによる家族構造の解体は、実は今日の箇所だけで言われているのではありません。例えば、マタイによる福音書の4章21節以下では、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネが舟と父とを残してイエスに従ったとあります。少し考えてみると、ゼベダイもまたイエスについて行くこともできたはずなのですが、そうはしませんでした。これを、ゼベダイが自分が持っている家父長としての力を手放すことができなかったと読むこともできるかもしれません。一方で二人の息子は、イエスについて行かなければ、将来的には父から家父長としての権利を受け取ることになるはずだったのですが、それを放棄してイエスに従ったのです。
また、今日の箇所の少し後、マタイ12章45節以下では、群衆の中で話をしているイエスのもとにイエスの母と兄弟たちが来て、イエスを呼んだとき、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。(中略)だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言っています。ここでは親子の権力関係を越えて、血縁関係としての家族のあり方を否定しています。そして、イエスにとって父とは、徹底して神のことを意味していました。だからこそ、神の御心を行う人がわたしの父だ、とは言いませんでした。それはここでもまた、「父」という存在が圧倒的な権力を持っている家父長的な社会の中でのアンチテーゼだったからです。つまり、人間の間では権力を持つ者がいてはならず、神のみがその権力を持っているということです。わたしは個人的に神を父と呼ぶことにも問題があると思っていますが、ともかくイエスは権力による支配に抵抗するということから、地上の人間を父と呼ぶことはありませんでした。
このようにイエスは、家父長的な家族の解体を通して、社会全体の権力構造、つまり人間が人間を支配するシステムを解体しようとしたのではないかと考えることができます。そしてその抵抗はユダヤ社会だけではなく、そのユダヤ社会が置かれた権力構造のさらに上に位置するローマ帝国にまで及んでいました。だからこそ、イエスはユダヤ教の処刑方法である石打ちではなく、ローマ帝国の処刑方法である十字架刑で殺されたのです。
このように社会の抑圧や権力のシステムに抵抗をするということを申し上げると、もしかしたら、「そんな姿はわたしが信じるイエスさまとはイメージが違う」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに冒頭で申し上げたように、今日の箇所のイエスの言葉は激しく、なんだか恐ろしくて、多くのひとと食べ物を分かち合ったり、子どもを祝福する優しいイメージとは真逆のように思われるかもしれません。ですが、今までお話してきたように、これは単に争うことを勧めるような言葉ではなく、権力構造の中で下に置かれた者が上にいる者に抵抗をすることを示しています。社会の中で、あるいは家族の中でしいたげられた人たちは、イエスのこの言葉が、「我慢しなくていい、怒ってよいのだ、わたしも一緒に闘おう」と励ましてくれているように聞こえたのではないかとわたしは思うのです。わたしは、イエスがこのように気持ちを分かち合うことのできるひとであったというところに魅力と、力があると考えています。わたしたちクリスチャンはイエスを神の子であると告白します。当時のユダヤ教では、それが神への冒涜であるとして異端視されました。しかしそれがなぜローマ帝国まで巻き込むことになったのでしょうか。現実的に考えて、一人の人間が「自分は神の子だ」と言い張ったところで、巨大なローマ帝国にとっては痛くも痒くもなかったはずです。それなのになぜ十字架刑に処されたのか。イエスが本当に神の子で、多くの奇跡を行ったからでしょうか。そのように信じることは、もちろん間違いではありませんし、キリスト教の中心的な信仰のあり方であると言えます。ただわたしが思うのは、イエスが神の子であると言うとき、イエスだけが神の子なのではなく、イエスの姉妹、兄弟として、わたしたちもまた神の子であるということです。先ほどお話したように、神の御心を行うひとがイエスの姉妹であり兄弟であるとイエス自身が述べています。イエスは唯一絶対の神の子なのではなく、わたしたちの兄弟として、同じ輪の中にいるのです。そしてその輪の中で、痛みや悲しみ、そして怒りを分かち合った、だからこそ、イエスの仲間になりたいと思う人たちが増えていったのではないか、そしてそのことが民衆を扇動する者として目をつけられて、政治犯として処刑されたのではないかと思うのです。
そのように気持ちを共有することだけで、処刑されるだろうかとお思いになるかもしれません。しかし、気持ちの共有が社会を動かすということは実際にこの世界の中で起こっています。みなさん、ニュースなどで韓国のろうそく集会のことをご覧になったかと思います。当時の大統領であった朴槿恵さんが、市民のデモ集会によって弾劾されたという出来事です。日本では残念ながら、メディア自体が嫌韓的であるため、この出来事が歪曲されて報道されることが多かったようです。念のため断っておきますが、わたしは朴槿恵政権の次の文在寅政権が素晴らしかったとか、あるいは現在の尹錫悅政権がどうだとか、そういったお話をしたいのではありません。そうではなくて、実際にろうそく集会の場にいて感じたことをみなさんにお分かちしたいと思います。
2016年10月から半年間、毎週土曜日に朴槿恵政権の退陣を求めるろうそく集会が開かれました。雨の日はもちろん、ソウルは真冬にはマイナス10度以下になることもあるのですが、そんな日でもろうそく集会が開かれました。わたしも10回くらいは参加したのですが、初めて参加したときの経験がものすごく鮮烈でした。たぶんろうそく集会が開かれて2回目くらいのときだったと思うのですが、その頃はまだ集会のプログラムがあったり、きちんとオーガナイズされているのではなくて、本当にただただ人々が集まっているという状況でした。でも、殺伐とした雰囲気では全くなくて、なんだかお祭りのような雰囲気だったのです。この集会が始まったきっかけは、チェ・スンシルという占い師のようなひとが、朴槿恵大統領の相談役になってしまっていて、またその関係でチェ・スンシルの娘が大学に裏口入学をしたとか、そういったスキャンダルでした。そのことは日本でもある程度報道されていたと思います。ただ、そこに集まっていたひとたちは、単にそのスキャンダルにだけ怒っていたのではなくて、自分たちの生活がままならないことを、市民がそれぞれの立場から感じていて、その社会のあり方に対する怒りをもって集まっていました。ただ、怒りを持っているからといって、それが暴力行為に結びついたわけではありません。先ほども言ったように、なんだかお祭りのような雰囲気で、ベビーカーを押しているひともいれば、中学生くらいの子どもたちが友だちと連れ合って来てました。そういうひとたちが何万人も、テレビなどで呼びかけたわけでもないのに、一つの通りに集まっていたのです。イメージで言うと、新宿駅東口から新宿御苑の駅まで、新宿通りをずーっとひとが押し合いへし合いしている感じです。そのとき「あ、これは社会が変わるな」と強く感じたことを覚えています。その後、だんだんと集会の形が整ってきて、景福宮の前にステージが作られて、さらにそれが見えないところには大きなスクリーンが設置されるようになりました。舞台の上ではプロの歌手や、楽器を演奏するグループであったり、ときにはマジシャンが来てパフォーマンスをします。そしてそのパフォーマンスの合間に、市民が出てきて、スピーチをしていました。例えば、労働組合から来た人が非正規労働者の現実を訴えたり、中学生や高校生が学校教育の中で自分たちがおかしいと思っていることについて話したり、性的マイノリティのひとが差別問題について定言したりもしていました。このように、それぞれのひとが抱えている個別の問題は違っていても、それが社会や政府に対して怒っているんだということで一致して、そこに集まっていたということです。一番多いときには20万人を越えるひとが集まったと言われています。そのように人々が怒りをもって、しかし平和的に集まることが半年間続き、ついにはその国の最高権力者である大統領が弾劾されることになったのです。
日本に帰ってきてみると、怒りを正しく表現することが本当に難しい社会だと感じます。マイノリティが怒れば怒るほど、「ヒステリックなひとが騒いでいる」と耳を傾けてもらえなかったり、反対に権力者が自分の思い通りにならないと怒鳴り散らして回りを萎縮させたりといったことが、そこここで起こっています。しかしイエスは、社会の中でしいたげられているひとたちが抵抗の声をあげることを良しとされ、その人たちと共に闘ってくださいます。人びとの輪の中で、痛みと苦しみ、そして怒りの思いを分かち合いながら、共に歩んでくださるのです。韓国のように、市民の力で社会を変えることは日本では難しいと思われるかもしれません。ですがイエスは、社会そのものや、ローマ帝国まで射程に入れて抵抗するとき、まずは一番身近な家族から変化を起こそうとしました。ですから、わたしたちもまた、身近なところから抵抗を始めなければなりません。近くにいるひとが怒っているならば、なだめすかすのではなく、その思いを聞いて、一緒に声をあげることができるはずです。あるいは、これまでしょうがないと諦めていた自分の中でくすぶっている怒りにも、もう一度耳を傾けてみてはどうでしょうか。イエスはその一つひとつの歩みを共にしてくださいます。