※本日は特別礼拝のため音声ファイルはありません
申命記10:12-14/マルコ9:42−50
主の恵みのもとで8月の新たな月を進みます。酷暑の日々、コロナ禍が続く中で、集中豪雨も至る所で起こり、人々の生活を脅かす爪あとを残してゆきました。また世界を揺るがす出来事がそこかしこに溢れています。神から与えられる恵みを思うとき、日々の歩みの受け止め方は様々であり、良くも悪くも人間的な思いの先走ること多くあります。主の恵みを、希望をもって証しするキリスト教会は、現実の只中で、大胆に教会の内にも外にも主の証し人として伝道に励む時です。過去の歴史的な過ちを思い起こす中で、キリスト信仰者は祈りの内に何を思うでしょうか。日々様々な戦いの中にあって、平和、平和、主の平和が来ますようにと祈られること多くも、目を覆うばかりの出来事で溢れています。多くの争いは、創り主なる神を忘れ、われ神なりと言わんばかりに自己主張や自己実現にあらがう中で起こっています。いつの時代の教会も、この中に巻き込まれていること否めません。主の御国が来ますようにと祈る中、キリスト信仰が問われています。心からの懺悔と神への誠実なる応答としての言葉と行いが問われています。
主は「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。」と12人の弟子達に語ります。これまでも主は弟子達に、この先起こる十字架の受難と復活による罪の贖いと、その意味を十分に理解するよう、また弟子としてふさわしく整えられるように重ねて訓戒を申されました。しかし弟子達は、一向に正しい理解には至りません。迷いの中で主に問い続けることもなく律法学者たちと議論をし、自分たちの力を誇りにして、そこから「自分たちの中で、誰が一番偉いのか」との議論を始めました。そのような弟子達に対する主の憤りと真剣さが、激しく現われます。そして、こう戒めます。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」と。これはいったいどのような意味でしょうか。先の弟子達が、自分達の中で権力や地位の品定めをしていたことからも、考える指標です。それならなおのこと、「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。」との教えから示される「内に塩を、互いに平和に」とは、如何なるものでしょうか。
42節からの主による訓戒は、弟子達に限らず、この言葉を聞く者すべて者が余りの厳しさに困惑します。しかし何も主が弟子達に躓きを与えるものではありません。それは事実、神の御前において、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」と既にありますから、それ抜きには考えられません。主の名によって悪霊を追い出した人への阻止を行った12人の弟子達は、大きな躓きを与える加害者的な危険があることに注目です。そこには少なくとも、敵意と支配欲とが見え隠れしているからです。これに対しては、私達も例外ではないと重ねて心にとめる必要があります。主の審判は、「大きな石臼」、別の訳語では、「重い碾き臼」である「ロバの首にかけて引くような大きな碾き臼」を「首にかけられて海に投げ込まれる方がはるかによい。」と厳しく告げられることです。主に従い行くときには、常に覚悟が求められています。私利欲得で様々な悪徳に入り込むことほど大きな害はなく、信仰を喪失させるものです。
続いて43節以下の訓戒に対しても、言葉そのままでは非常に厳しいものです。ここで揚げ足取るかのように、主イエス自らが弟子達に躓きを指し示していると受け取る者や、キリスト教に対しての批判や攻撃が聞こえてくるのもわかります。しかし福音書のメッセージは決してそうではないことは、通しで読めば明白です。確かに、主の言葉そのものから、罪に陥るよりも我が身を切り落としてまでもという表現は過激に聞こえるでしょう。実際これに従えないということで、信仰に決断を下せないということをよく聞きます。しかし主は罪の審判として規則を定め、そこで身体の一部を切断せよとは命じていません。
それは当時の物語にあります「オディプス王物語」のように、「自分の母親にわが子を生ませた子供を目にするのを嫌悪して、自分の両目をえぐり出した」という物語の言い伝えが、世間一般に広がっていたことが裏事情です。主は民衆にもわかる表現で語られたことが重要です。言葉通りに、皆が片手、片足、片目になったわけではありません。そのような罪の行為に至らせる自分自身の心の内にある「他人に対して躓きを与えるもの」を受け止めた上で、そのような心を取り除かなければならないことを示しているのです。私達自身の罪の奥深さ、頑なさを、抉り出されているとも言えます。現実の歴史を顧みずしては、救いのメッセージを捨ててしまいます。
先ほど共に讃美を捧げました讃美歌21の397番が今朝の御言葉を味わうに手助けとなります。少し解説的な話をいたしますが、作詞者のキム・ヂェヂュン氏は、韓国長老派教会の牧師で、朝鮮神学校を設立し、ソウルの延世(ヨンセ)大学音楽部長や韓国讃美歌委員会の委員の一人でもありました。この歌が完成した年は1950年です。当時の政治は、保守派と進歩派の対立が生じ、その中にキリスト教会が巻き込まれて分裂を引き起す事態に陥ります。また世界的に歴史を揺るがした朝鮮戦争勃発の年でした。第二次大戦後の米ソ(旧ソビエト連邦)の政策対立が基で、朝鮮半島の支配権力権をめぐって周辺諸国をも巻き込んでの無法状態を朝鮮半島にもたらしました。そして、この時代の前後からキリスト教のあり方も揺らぎ始め、救世主待望や日本による弾圧迫害、韓国キリスト教の神学的欠如による間違えた信仰の教えが広まりました。また経済的貧困が続いたため、カルトや異端、混成宗教が溢れ出しました。そして、南北に国家が独立を果たすに至った後に戦闘が激化し、南のアメリカを先頭にした国連軍支援に対して北の中国・ソ連の支援連合の反撃が進み、1953年7月27日に休戦協定として調印されました。今に至っても「南北統一」の願いは遠く、一触即発の事態も日常的です。
また1960年代に作られた北朝鮮の歌に、日本語読みで「イムジン河」(臨津江)という抒情歌があります。日本でもフォークソングブームに乗って聞こえてきました。2節目の歌詞はこうです。「北の大地から、南の空へ、飛び行く鳥よ、自由の使者よ。誰が祖国を二つに分けてしまったの。 イムジン河空遠く、虹よかかっておくれ。河よ想いを伝えておくれ。ふるさとをいつまでも忘れはしない。イムジン河水清く、とうとう流る。」と、南北対立の悲哀の感情を歌います。いくつかの翻訳がありますが、政治社会的混乱を招くとされて、北朝鮮から日本でのレコード発売の禁止命令が下された歌でも知られています。
一方1950年代の日本では、戦後の経済発展が著しく進み、人々の生活に余裕が生まれてきたときです。世相の歌は希望に満ちた表現が生まれてきました。そのひとつには、「右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチューインガム。空を見たけりゃビルの屋根、潜りたくなりゃマンホール。」と、戦後の混乱から未来に託して、「明日こそいいことがあるに違いない」「明日がある明日がある」と新たに希望の夢を見た時代です。しかしそこから再び軍備を駆使しての支配権確保や軍事対立が世界規模に広がり始めました。これまた2022年の現在に至っても、内容的には殆ど変わっていないように見える世相の事態に思えます。
今朝の旧約聖書の御言葉、申命記10章12節以下ですが、今なお非常に心に突き刺さる思いが募るのも、懺悔をする意味において重低音のように響きます。「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くして魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」と。この箇所の前の章6章5節以下にある御言葉からも真実が浮かびます。6章7節です。「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」とあります。また申命記10章17節では次のようです。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦との権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」と。あなたたちが以前そのようであったのだから、彼らに対しても同じ思いを持ちながら主なる神を崇め、主に仕え、愛の業に励みなさいとの戒めが示されます。このことは、新約の恵みに与る今日のキリスト者のなすべき務めでもあり、主を証しする使命でもあります。また更には、主の御体なる教会の使命でもあります。ですから、先ほどの朝鮮半島の南北分裂や第二次戦中戦後の痛みの経験が、一般的な歴史的過去の出来事として、後の人々に消えざる大切な教訓として語り継がれているのでしょう。教育の現場においても必須の話題です。であるならばなおのこと、主の御言葉の伝承継承や主にある愛の交わりは、より強く深く長きに渡って広められることを思い、そうあるよう願わずにはいられません。
マルコ福音書ですが、「人は皆、火で塩味を付けられる。塩はよいものである。」との格言的な主の教えは、誰もが皆、神の裁きから逃れることはできないものとして、食物の腐敗や保存に不可欠な「火と塩」をもって、その大切さを強調します。そして、人はこの世で生きてゆく中では苦難が絶えないことを、世の人として共に歩まれた主は身をもって享受しております故に、そのことは御国へ至る過程として避けては通れないもの、日常的には必須の物質、貴重な「塩」として比喩的に使われます。そして「塩」の役割を踏まえて、信仰者としての「高潔と信仰そのもの」を地獄のようにウジがわかないように、腐敗から身を守るものとの真意が明らかにされます。そして詩篇歌(17:3-4, 26:2, 66:10)においても度々語られてきておりますが、神は火によって人を精錬し給うということ。それによって、人間の人格の高潔さを示され、精錬する過程を経て強められ、人々を金や銀の純度を増すように、言い換えれば、神による試練によって強くされ、主の弟子達やキリスト者としての貴重な、恵みを受けるのです。今朝の初めにヘブライ書からも聞きました。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」(12:10) それが心の内に神から与えられた賜物としての無二の「塩」となって現われてくると理解できます。その人自身の貴重な「塩」が、その味の特徴に見られるように、比類なき人格の特徴としてあらわされ、また戒めとして心に響きます。
マルコ福音書は、再三に渡っての弟子達の無理解とそれに伴う権力比較に絡む口論や議論を、神の国に至る途上の赤裸々な事実として、人間の生き様を根幹からえぐり出しています。そして福音書の書記者の置かれている信仰共同体の苦難や、その時代の度重なる迫害による分裂抗争が根底にあります。今日の私達の状況に照らし合わせてみても、先の歴史的な背景を踏まえることにより、遠い昔の出来事ではなく、今も強くこのことが現実みを帯びて響きます。
それも個人的ではなく、私達はお互いに支え担い合って、祝福に満ち溢れる神の国の働き人として歩み続けているはずです。またこの世から分離されているのでもなく、周囲に存在するすべての人々との関わりの内にあります。そこで、ひとりひとりの心の内にある「塩」のあり方、使われ方次第で、「地の塩」としての働き人となるか、その辛さの特徴を強引に振り撒いて、独裁的な欲望を押し切るものであるのかは、各自が神との関係を見つめてゆく中で、さらには隣人への心遣いの如何によって、互いに平和に過ごすものであるか否かが問われています。いずれにしましても、自分自身の内には厳格に「塩」を備え、外なる隣人に対しては、よい味をもたらすように、それこそ「いい塩梅」となるように、さじ加減も見ながら襟元を正す意味合いも含め、「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」「主の御国が来ますように」と、共に主にある平和を求めて祈り続けます。