民数記11:24−29/Ⅰコリント12:14−26/マルコ9:33−41/詩編13:2−6
「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(Ⅰコリント12:18)
今日は先ずこの絵本を読みます。(「へいわとせんそう」たにかわしゅんたろう:文、Noritake:え)
今年、沖縄では6月12日から慰霊の日である6月23日までの間にかけて、「沖縄『平和の礎』名前を読み上げる集い」がありました。摩文仁の丘に建てられている「平和の礎」に刻まれた24万1632人のお名前に、今年判明した55人のお名前を加えて、総数24万1687人のお名前をZoomによるリレー形式で読み上げました。今年初めての取り組みで、来年以降も取り組まれることが決まったようです。
私も2度程摩文仁の平和の礎を訪れたことがあります。この碑には米軍側の戦死者も名前が刻まれています。敵味方という分け方ではなく、戦争犠牲者という一括りなのだそうです。それがとても心に残っています。
それにしても、今年名前が判明した方が55人いらっしゃったということは衝撃でした。
1945年6月23日に日本軍による組織的抵抗戦が終了し、9月2日に降伏文書に調印され、わたしたちの国では戦争が終了しました。以後どこも一度も戦地にはなっていません。しかしあの戦争終了の日から77年も経ってやっと、一人の人としてその名前が刻銘された方が55人もいらっしゃったということでしょう。さらにまだ名前のないままにどこかで眠っている戦争被害者もいらっしゃる。その人が眠るその土を、辺野古の新しい戦争基地の埋め立てに使っている。どうしてそういうことができるのだろうか。同じ人間のやることだろうかと思ってしまいます。でもそれを許しているのはわたしたちが投じた一票ですよね。ということはそんな非人間的な行為をしているのは、「同じ人間」どころか「わたし自身」だったのです。わたしたちはわたしたちの体の真ん中に、いくらでも非人間的な行為が出来る人格を持っている、備えているのです。戦慄を覚えます。
パウロはコリントの教会のひとたちが排除の論理で分裂していることに対して、「からだのたとえ」をもって、一人ひとりが違うことが排除の基準ではなく、共同体の違う部分を担っていて、それによってキリストの体を輝かせる「役割」なのだと解きました。他者の排除は自己崇拝の裏表です。違いが認められないのは「同じ人間」と思いたくないからに他ならないのです。
しかし、たにかわしゅんたろうさんは、「みかたのかお」と「てきのかお」にどんな違いがあるのか、「みかたのあさ」と「てきのあさ」にどんな違いがあるのか、「みかたのあかちゃん」と「てきのあかちゃん」にどんな違いがあるのかと問います。違いは無いのでしょう。でも戦争をやりたがる人々にとってそれでは困る。だから声高に叫びます。「敵は人間ではないのだ、敵は鬼畜なのだ」。その高らかな合唱がこの国のすべての人々を戦争に駆り立てました。
その合唱は77年経った今、さらに大きな声になろうとしていますよ。そしてまたしてもわたしたちは簡単に、その声に踊らされようとしています。中国が日本の周辺で軍事力を強化している、ロシアがウクライナに侵攻したのと同じように北方領土から日本に侵略の手を伸ばそうとしている。沖縄は地政学的に軍事基地に適しているから、南を守るために本島のみならず先島諸島もすべて軍事基地にしなければならない。手薄な北海道を守るために自衛隊を増強し軍備を最新のものにしよう。そのためには軍事関連の国家予算を倍増しなければならない。自分たちで準備しなければ米軍だってNATOだって、助けてはくれないだろう、と。
「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(Ⅰコリント12:18)。わたしたちに豊かな違いが与えられているのは神の御心です。それを信じるホンキ度が、今わたしたちに求められています。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちは一人ひとりユニークな存在としてあなたによってつくられました。違うことはゴールではなくスタートです。違うところから始まるのです。違うことに謙虚になることが出来ますように。私自身の中にある暗闇を、あなたの光で照らしてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。