サムエル上17:32−50/Ⅱコリント6:1−10/マルコ9:14−29/詩編18:26−35
「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(Ⅱコリント6:1)
四谷新生教会の通常の礼拝では、日本基督教団讃美歌委員会が作成している聖書日課が使われています。この聖書日課は、福音書が4つあるので、福音書をそれぞれ一年間に一冊読むことを基本とした4年サイクルになっています。そして礼拝の主題も4年間変わらない部分とサイクルによって変わる部分とをもっているのです。今日の礼拝主題「神による完全な武器」はサイクルによって変わる主題です。なのでこの主題を目にしたのは4年前ということになります。
で、私はこの主題をずっと「神による完全な武具」だと思い込んでいました。「武器」を「武具」だと勘違いしていたのです。私の頭の中にバイアスがあって、「武具」というとなんとなく平和的で「神による」という言葉に沿うような気がしていて、逆に「武器」というと戦争で使うモノに代表される相手をやっつけるためのモノで「神」と相容れないと単純に考えているせいだと思います。
なのでこの礼拝の準備を進める中で「武具」ではなく「武器」だったというオドロキと共にその意味を考えなければならない、これまでと違ったところに立ってその作業を進めなければならないという事態に立ち至ったのでした。
そうして与えられた聖書4箇所をじっくりと読んでみたのです。中でもサムエル記上17章はいわゆるダビデとゴリアトの物語です。とても長い箇所が指定されていて、司式者は読むのが大変だったと思います。が、今日の礼拝の主題と、その主題を勘違いしていた私と、そしてダビデとゴリアトの物語は、確かに一つの線で結びついていることがわかりました。今日この箇所がこの主題の下に選ばれている意味が、やはり確かにあるのだと思わされたのです。
物語はイスラエルの宿敵ペリシテにとてつもなく大きい戦士ゴリアトがいて、彼はイスラエル軍の兵士を見下している。少年ダビデはゴリアトのその態度がイスラエルの神ヤハウェを見下しているのだと我慢がならないわけです。そこで王に願い出て「僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(サム上17:32)と言う。王サウルは一旦は引き留めますが、ダビデの決意が固いことを認め、自分の武器をダビデに貸し与えます。ダビデはそもそもサウル王の武器を持つ者として王に仕えていました。「ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。」(サム上16:21)とあるとおりです。
ところが、王が貸し与えてくださった王の武器はダビデにとって苦痛でした。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」(同17:39)と言うのです。「王の武器を持つ者に取り立て」てもらっていたダビデがその王の武器を「慣れていませんから」と言う。これはだから単に使い慣れていないという意味ではなく、自分に必要なモノはこれではないという明確な拒否でしょう。そしてどうしたか。「ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。」(同17:39−40)のです。読者はたちどころに、それがどれだけ無謀な、無意味なことかと思うでしょう。王の携える武器はおそらく全イスラエル軍の中でも最新鋭の、最も鋭利なモノだったに違いありません。イスラエルにいる名だたる戦士の誰にも持てないほどの最高の威力を持ったその武器を「脱ぎ去」る。この言葉はおそらく鎧を指しているでしょう。戦争の中で王のいのちを守る最高の武具だったに違いありません。それを「脱ぎ去り」、生身の体一つで石投げとなめらかな石5つだけ持って、ペリシテ史上最高の戦士の前に立ったのです。無謀で無意味な行動です。それはゴリアトがダビデに抱いた思いでもありました。
しかし戦いの結果はあっけなくダビデが勝利します。48節49節50節は六代目神田伯山なんかに読んでもらいたいくらいの箇所ですよね。そのまま講談になりそうですよ。それはともかくその結末を聖書は短くこう語ります。「ダビデの手には剣もなかった。」(同17:50)。
パウロはコリントの教会の信徒に宛てて「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)と、今の喜びを伝えつつも、その「神からいただいた恵み」(同1)を無駄にしないために日々の闘いを闘っていると言います。信仰に立ちはだかる困難や試練をパウロはここに列挙しますが、それに立ち向かうために「左右の手に義の武器を持」(同7)っていると。最新鋭の、最も鋭利な武器、最高の威力を持った武器、あるいはいのちを守る最高の武具のことでしょうか。むしろパウロは丸腰で困難や試練に立ち向かっていたのです。わたしたちの目にはそれは丸腰にしか見えないけれども、パウロは自分を取り囲み守り支えてくれる神の軍勢をそこに見ていたのです。
わたしたちには日々誘惑があります。殺されてしまった元総理は米国でトランプ大統領が誕生したときに真っ先にお祝いに出かけて、100機を超える最新鋭の戦闘機を発注しました。平和で安定的なインド太平洋を構築するためにそれが必要だというのでしょう。最新鋭の、最も鋭利な武器、最高の威力を持った武器、あるいはいのちを守る最高の武具を求めたくなるのはわたしたちの常です。
しかし、神の武器、神からの武器とはそうではない。無意味な石5つです。「剣もなかった」のに、神はその丸腰の者を用いて勝利する。もしわたしたちに神からの完全な武器が与えられるとしたら、それは「信仰」そのもの、神の前に丸腰の自分を捧げる行為そのものなのではないか。そんなことを考えさせられるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。実際に戦争が日々行われ、命が無意味に殺されるその中に今、わたしたちはいます。あなたが愛してつくられた命が、同じく愛されてつくられた命によって滅ぼされる毎日なのです。わたしたちはすぐさま最新鋭の武器を装備し、その威力によって平和を得ようとします。神さま、あなたではなく最新鋭の武器こそ私を守るのだ、と。しかし神さま、あなたはその目論見を無意味にされます。あなたが与えてくださる完全な武器とは、愛なのだ、と。そのことを信じることが出来るのか、あなたはわたしたちを今試しておられます。どうぞ信仰をもって丸腰の私をあなたの前に差し出す者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。