列王上10:1−13/Ⅰテモテ3:14−16/マルコ8:22−26/詩編119:129−136
「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(Ⅰテモテ3:15)
7月の初めの説教で「現実を抱えた現実の教会は、何を宣べ伝え、どこへ向かえば良いのか」という問いを挙げました。そして具体的に四谷新生教会はどこへ向かえば良いのかを考えるために「四谷新生教会100周年を、誰が祝うのか」という視点を挙げました。30年後に四谷新生教会創立100周年はやって来ます。そして今ここにおられる多くの人は、その時には教会を支えたり導いたりする奉仕の現役ではないだろうと思います。幸いにいのちを存えたとしてもです。つまり30年後を見据えて今、わたしたちに出来ることは何かを考えようというのが「四谷新生教会100周年を、誰が祝うのか」というテーマの中心でした。ですから、100年を待たずに10年ごとに例えば80周年や90周年を祝えば良いという話にはなりません。それは今だってじゅうぶんできることです。でも30年後にこの教会がどうなっているのか──そしてその背後に30年後のこの国のありようも問われているのですが──をしっかりと見据えて、今打つべき手を着実に打ってゆくことが必要なのではないか、と思ったのです。
その時にわたしの年老いた両親がメンバーとなっている秋田のちいさな教会の話しもしました。今その教会に連なっている人のほとんど全てが私のことを知っている。そして今その教会に連なっているほとんどのひとのことを私が知っている。この40年〜50年の間、メンバーがほぼ変わっていない。変わったとすればその人たちは天国会員になったということだけです。そして40年も50年も前から、やがて教会は立ちゆかなくなるのではないかと言われ続けていました。しかし、危機感を持ちながらさしたる変化もなく、それでも教会は守られ支えられ続けてきている。さすがにそれももう限界だと思われます。教会という建物を維持管理することだけでも大変だし、役員会を担う人もなかなかいないし、今は無牧師で隣の教会の牧師が代務者を務めているけど、そして牧師を招聘したいと願ってはいるけれども、それもまた現実的には難しい状況になっているのです。
以前遠野教会で働いていたとき、JR釜石線というローカル線に沿って花巻・土沢・遠野・釜石にそれぞれ教会があって、さらに日詰町と北上と大船渡を加え「岩手中央地区」という奥羽教区の地区を形成していました。その地区に隠退間近だった宣教師夫妻が長く協力してくださっていました。宣教師は数年ごとに本国に帰って、自分を送り出しているミッションボードに宣教活動の報告をします。アメリカのあちこちを巡ってその地の教会で、岩手県の中央地域にいくつかある創立100年を迎えようという教会の話しをするのだそうです。花巻、土沢、遠野の教会が創立100年を控えていました。岩手中央地区には間もなく100年近い宣教の歴史があってしかし今礼拝を捧げているのは10人に満たないちいさな教会が集まっているのだ、と。するとその話を聴いたアメリカの教会のメンバーたちが口々に「ミラクルだ!」と言うらしいのです。それだけの歴史を重ねて宣教に労苦している教会に、労苦しつつも主を賛美する者たちが立てられているという事実に、プロテスタントキリスト教の総本山のようなアメリカのクリスチャンたちが神の奇跡を見ているのだ、と。
そこに遣わされているわたしたち牧師は、がんばってもほとんど宣教の実りが無いし見えない、新来者なんてこない、幼稚園があったとしても子どもたちが礼拝に集うなんてこともほとんどない、何をやったって成長が見られない、残念ながら弱く小さいという現実を嘆いているしかなかったのですが、そういうわたしたちにラマーズ宣教師夫妻は「お前たちがさせられているその仕事こそ神のミラクルだとアメリカのクリスチャンたちは称賛しているよ」と言うのです。であれば、残念ながら小さいとか、全く成長しないと、小さいことを嘆いていてはならないのだと思いました。だから遠野教会牧師としてあちこちに出かけていって教会の紹介をするときに「残念ながら小さい」ではなく「幸いにも小さい」と言うようになったのです。
テモテへの手紙はパウロが書いた手紙ではなくパウロの名前を冠した手紙に分類されています。まぁ、そうでしょう。パウロは当初イエスの再臨が近いと本気で思っていましたが、晩年にはそれが大分遅れているという意識でした。でもテモテへの手紙を読むと教会という組織があってその組織をどう運営していくかが中心テーマなのですから、パウロよりずっと後の時代であることは明らかです。でもだからこそ、では教会とは何かを考えるときにこれらの手紙はたくさんのヒントを与えてくれるのです。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(Ⅰテモテ3:15)と書かれています。7月最初の説教では「教会もこの地上にあっては人間がつくる組織に過ぎません。理想的なあり方を模索はしつつも、この世の制約を受けざるを得ないことは事実です。」と言いました。その通りですが、教会とはやはりそれだけではないのです。地上にあって人間のつくる組織に過ぎないこの教会という器を、神が用いるときに、それがそのままで「真理の柱であり土台である生ける神の教会」になるのだということです。
だからこそわたしたちは、神さまの救いのご計画を信頼して、大胆に教会のあり方を考えることが出来るのではないでしょうか。そういう視点に立って「四谷新生教会100周年を、誰が祝うのか」というテーマを考え続けてゆきたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。この国であなたに従う決意をする者は、それだけでマイノリティです。あなたがわたしたち一人ひとりをマイノリティに招いてくださっているのです。であれば、マイノリティはハンディではなくあなたの祝福の基です。この四谷新生教会もまた、あなたの祝福の基です。であるからこそ、真理の柱と土台をもった神の家として、この教会が今採るべき道、進むべき道を心から祈り求め、決断をもって大胆にその道に進み出ることが出来るよう、わたしたちを導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。