出エジプト19:1−6/Ⅰペトロ2:1−10/ヨハネ15:1−11/詩編95:1−11
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
(ヨハネ15:2)
イエスがご自身をぶどうの木にたとえ、イエスの弟子として従ってゆこうとする者たちをその実、つまりぶどうの果実にたとえるというのは、福音書のなかで最もよく知られているお話のパターンの一つではないかと思います。
大阪で中川木材産業株式会社を経営する中川勝弘さんは、趣味と実益を兼ねて聖書の中に出てくる樹木を樹種別にリスト化してホームページに公開しておられます。彼の労作によると、木材や樹木に関する単語が全部で1018箇所あり、木の種類では24種。ただ翻訳の段階で樹種名が正確にされていない場合も考慮しなければならないそうですが。一番登場回数の多いのは「ぶどう」で391回、次が「杉」の70回だそうです。尤もこの場合「ぶどう」という単語で検索するので「ぶどう酒」や「ぶどう畑」も含まれるらしく、「ぶどうの木」と検索すると52箇所だったそうです。だとしても52箇所ですから、聖書の世界にぶどうの木は極めて身近だということの証明です。それにしてもなかなかおもしろいことに目を付けたかたですね。
そして旧約の時代からカナン地方は良いぶどうの実がなるようです。例えばエジプトを脱出したイスラエルがいよいよカナン地方に入ろうとするとき、斥候を出して土地を探らせるという物語が民数記13章にあります。「彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。」(民数記13:23−24)。農園だったのか野生のぶどうだったのかここだけでは良くわかりませんが、しかしたった一房のぶどうが付いた枝が男二人で担ぐほどだったという、ちょっと話しを盛りすぎじゃないかと思われるほど、ぶどうに適した土地だったというわけでしょう。
今日の福音書はイエスがご自分をぶどうの木だと言う箇所です。神が農夫でぶどうの木であるイエスご自身を手入れされる。その時に「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言うのです。
ところが同じようにぶどうやいちじくの木の実りについて取り上げるマタイ福音書は、ちょっと印象が違います。7章15節以下に「偽預言者を警戒しなさい」という言葉から始まるひとかたまりのイエスの教えが書かれています。ここを読むと「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(7:17−19)とあります。良いかどうかは実を見ればわかるというのです。つまりマタイ風に言えば「イエスにつながっている者で悪い実を実らせるはずはない」ということになります。これは自分のことをクリスチャンだと自称できる人にとってまことに都合の良い言葉です。
そういう風に自称して憚らない人は先ず、実が本当に良いのかどうかは問いません。イエスにつながってさえいれば良い実なのです。だから逆に繋がらない人を徹底的に区別します。
しかし、ヨハネ福音書は言っていることがちょっと違うんですよね。イエスご自身がぶどうの木で、それを手入れなさるのは神なのだけど、イエスにつながっていても「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」というのです。イエスにつながっているだけでは保証されないよ、と聞こえます。この「取り除かれる」は「刈り取る」という言葉です。そして「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(2)の「手入れをなさる」は「刈り込む」とか「清める」という意味ですが、ギリシャ語では「アイロー」と「カタ・アイロー=カタイロー」のとの違いでしかないのです。言葉遊びしているようですよね。繋がっていても実を結ばないこともありという前提です。じゃあいっしょうけんめい良い実になるために努力を重ねなければならないのかと思うのですが、同じ箇所で「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(同3)とも言うのです。
つまり神さまは実を結べないわたしを捨て去って関係を断とうとしているのではなく、全く逆で、何とかして実を結ばせてやろうとしてくれているということではないでしょうか。「役に立たない者は切り捨てろ」とか「永遠の炎に焼かれてしまえ」というような呪いの言葉ではないのです。そしてこの箇所のあとには「互いに愛し合え」という教えが続くのです。当然の帰結のように。
いろいろな思いを抱えて、心から信じる者も疑う者もいる中で、しかしイエスに従ってゆくときに、わたしたちは私たちを生かそうとする神の御心、実を結ばせようと手入れをしてくださる神の愛に気づくようになる。それが大事なのだということではないでしょうか。「神の民」であるということは、わたしたちの努力によって勝ち取った、手に入れたものではない。「神の民だ」としてくださったかたがおられて、そのかたにすべてかかっているのです。既得権益であるかのように振る舞うのはおかしなことです。仮にそうだと、既得権益だと言うなら、むしろ神さまは、この世のすべての者に──今生きている者も死んだ者もこれから生まれてくる者すべてに──既得権益を、すでにお与えになっているということなのでしょう。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの救いのご計画によって、あなたのご意思のみによって、わたしたちは救いへと招かれています。しかも、あなたがおつくりになったすべての者が招かれているのです。この動かしがたい事実の前に、静かにへりくだる者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。