レビ19:9−19/Ⅰヨハネ4:13−21/ヨハネ13:31−35/詩編34:2−8
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
一昨年の11月29日に、わたしはここで説教をいたしました。いわゆる「お見合い説教」というヤツです。で、その時話した説教のタイトルは「じゃぁ、愛ってなんなんだよ」でした。アドヴェントに入った最初の主日のことでしたね。
あの時も「愛」について考えました。そしてギュッツラフ訳の聖書のお話をしました。こんなことです。
聖書が一番最初に日本語に訳されたのはギュッツラフによるヨハネ福音書だったと言われています。手伝ったのが知多半島美浜町出身の音吉をはじめとする3人の船乗りたちでした。千石船で江戸に向かう途中嵐で難破して、多くの人が倒れたけど、若かった3人は生き延びて太平洋を横断して…というお話しです。
その縁でギュツラフ訳の言葉には三河弁がずいぶんと入っているらしいというお話をしたのです。その時取り上げたのが今お読みいただいたヨハネ13章34節でした。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ここで「愛」という言葉をギュッツラフと音吉たちは「かわいがりよう」と訳したのです。そこで、「わたしがあなたがたを愛したように」という部分が「ワシ オマエタチヲ カワイガル トホリニ」となった。そう言われるとなんだか「あぁ、イエスに愛されているなぁ」と実感するように思えます。
岩手県大船渡市で医院を開業している山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)さんは岩手県気仙地方の言葉で聖書を翻訳する作業を行う人です。そしてケセン語で4つの福音書をCDに録音しました。彼のケセン語訳で「愛」はどう訳されているかというと「大事にする」です。音源があるので聞いてみましょう。34節です。
「愛」と訳されているこの部分のギリシャ語は「アガパオー」の命令形「アガパテ」が使われているわけですが、そしてそれは伝統的に日本語で「愛せ」と訳されてきたわけですが、ケセン語にはそういう言葉はないのです。気仙地方ではそういう場合は伝統的に「大事にしろ」と言うのです。だから山浦さんはそう訳したわけです。東北人であるわたしにはこの山浦さんが朗読する言葉は良くこの身に心に染み渡ります。
しかし、「愛」と訳そうが「大事」と訳そうが、それ自体がわたしたちにとって問題であることは変わりません。イエスの時代よりむしろ今現代の方が、これは大きな問題なのではないかとさえ思えます。なぜなら今、世界中は戦争のまっただ中だからです。
ロシアではプーチン大統領が「(ロシアは)他国にない兵器を保有しており、必要な時に使う」と核爆弾を使うことを躊躇わない考えを改めて表明しました。北朝鮮も朝鮮人民革命軍創建90周年の軍事パレードとそれに続く演説で総書記は「我が国が持つ核武力を最大限のスピードで強化・発展させ続ける」と言いました。ウクライナ戦争で国際機関の和平調停が功を奏さない現実の中で、「国連改革」の声も高まり、あるいはそれ以上にもはや国際機関を当てにせず、日本国憲法を改悪して武力を持つ、核開発も行うというような勇ましい声がまかり通る事態となっています。「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と高らかに謳ったこの憲法を、周辺国の脅威を理由に葬り去って構わないと考える声が高まってきているのです。「愛」とか「大事」とかはもはや死語か何かの扱いです。
旧約聖書創世記の天地創造の物語は分厚い聖書の第一ページから始まっているので、聖書という本のなかでもっとも初めに執筆されたかのような誤解を受けますが、そうではありません。創世記の中にあって用いられている資料から考えると紀元前6世紀頃、つまりバビロン捕囚の時代にまとめられた部分であると見られます。祖国が滅び敵国に捕虜となっている人たちが、民族の歴史を顧みて、敗北に寄り添う神の姿を見出し、御心から離れた結果今があるのだとの罪の告白が「天地創造」の物語を生んだのでしょう。その物語に「人が独りでいるのは良くない」(2:18)という神の言葉を書き込んだのです。
人間は、他者と共に生きることこそが人間としてつくられた本質なのだということです。調和して暮らせるならそれに越したことはない。でも人間は他者との間に常に軋轢を生む存在でもあります。それが「罪」「原罪」の正体です。その軋轢の結果イスラエルは滅んだわけで、そこに罪の告白がある。そして人がつくられた本来の意味に思いを至らせた。でも残念ながらそれは長くは続かない。相変わらず軋轢の中で人々は生きている。その軋轢ゆえにイエスは十字架で殺されるのです。
そのイエスが、わたしたちに「新しい掟」をお与えになった。それゆえそれは目新しい教えではなく、とても普通な、当たり前な、人間がつくられた本来の意味を思い起こさせる掟でした。だから難しいのです。その結果今わたしたちは迫られている。「愛」を行うのか、あるいは棄て去るのか、と。「互いを大事にする」のか「敵」として滅ぼすのか、と。わたしたちはどちらを選びましょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたは世界にわたしひとりをおつくりになったのではありませんでした。あるいはわたしと同じ考え、似た考えの人だけをつくり、そうでない人たちを滅ぼしてしまう神さまでもありませんでした。あなたは人に対して、隣人と共に生きることをお命じになりました。ひとりで生きていくことは良くないのだ、と。今世界は戦争のさなかです。自分の意に合わない者を殺すことで一つになろうとしています。しかしそういう考えがそもそもあなたがお命じになったことではないことを先ず知らしめてください。人と人とが一緒に生き続けるのは極めて困難です。でもあなたがお命じになったことであれば、あなたがその道をもお示し下さるはずです。どうぞその道を探し続けることを諦めないように、わたしたちを強めて下さい。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。