エゼキエル34:7−15/Ⅰペトロ5:1−11/ヨハネ10:7−18/詩編23:1−6
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16)
皆さんは「野宿」というのをしたことがありますでしょうか。
ちょっととっぴなお話かも知れませんが、じつは子どもたちと行うアウトドア体験のプログラムの中に「野宿する」というのがあるんです。これは日を置いて何度か経験を積んでいくプログラムなんですが、一番最初は本当に野宿、しかも何も囲いのない野宿を体験してみるというところから始まって、次には例えば大きな木の根元で寝てみる、次には新聞紙や上着や、何か掛けるものを使って寝てみる、というふうに、だんだんと快適な野宿へ向かって体験を積んでいくというプログラムです。昔神学生の時、通っていた教会のCSの夏のプログラムにこれを提案したことがあったのですが、みごとに却下されました。
わたし自身は野宿体験があります。もちろん、テントを張るキャンプなら子どもの頃から何度も体験してきましたが、そんな上等なものだけでなく、寄せ場で野宿したこともありますし、駅の構内や上野公園のベンチも経験があります。早朝、体が夜露に濡れていて目ざめるのです。あるいは自家用車の中で眠るなんてことは相当一般的かも知れませんよね。
なんでこんな話をしたかというと、野宿プログラムの発展の仕方が面白いからなんです。今言いましたように、まずとにかく体ひとつで寝てみることから始めて、徐々に体を覆うものを追加していく、最後にはテントのようなところに行き着くのですが、自分の体を囲うことによって人は快適さを手にしていくのだという事実を体験するところが面白かったのです。そしてもちろんテントなんかは快適なのだけれども、いざとなったら無防備でも眠ることが出来るということを自分の根本に置いておくということも、実に大切な学びなのです。
今は自分を無防備にしておくことには大変な勇気のいる時代になってしまいました。囲いがなければ安心できないだけでなく、その囲いをさらにセキュリティシステムで24時間監視していないと安心できないまでになってしまいました。囲いを破るものはイエスの時代でも今でも、盗人です。何か悪意を持っていて、囲いを破るわけです。それを防ぐために、さらに高性能の囲いをつくる。囲うということは自分と他人との間に線を引くこと、遮ることです。そうすることによって安心を手に出来るわけです。囲いの中は一人っきりということもありますし、家族であることもありますし、仲間であることもあります。しかし、囲いの内側はバラエティがあっても、囲いの外は全て敵意に満ちているという前提があるわけです。だから囲うわけです。
教会もそうかも知れません。山口県で働いた教会にはわたしが赴任する直前まで無認可の幼児施設がありました。礼拝堂は1950年に建てられ、その当初から幼児施設と共に歩む教会でした。その時には、ブロックで7段ほどの高い塀が教会の敷地を取り囲み、門には鉄製の門扉が据えられていました。幼児の安全を保つためには、たとえ外に「悪意」がなくても、不慮の事故に備えてそうしておく必要がありました。幼児施設が廃園になって、台風が直撃するという被害を受けて2000年に礼拝堂と境内地の大幅な模様替えをいたしました。その時に、その高い塀をブロック2段だけ残して切り取りました。鉄の門扉も外し門をなくしました。見晴らしが良くなって、却って不慮の事故に遭う確率が減りました。不思議なことです。これはとても象徴的だったと思います。そして実は単に建物だけではなくて、組織としての教会は高い塀を持っているのではないかと時々思わせられるのです。
教会によっては信仰を持っている人と持っていない人を厳密に分けます。カトリックの礼拝のことをわたしたちは一般に「ミサ」と呼びますが、あれは元々「去りなさい」という命令語です。聖体拝領の前に信仰のない人は会堂から外に出たわけです。今ではそこで行なわれる式は全てミサと呼ばれるようになって、途中でわけ隔てられることはなくなりました。プロテスタント教会ではどうでしょうか。今も聖餐式の場面では分け隔てられます。メソジストの伝統のある教会には礼拝堂の前の方に「恵みの座」と呼ばれるフェンスがあって、聖餐に与る人は前に進み出てその恵みの座の前で跪いて聖餐を受けました。日本基督教団は未信者に聖餐を与える教会をあぶり出し、そこの主任教師を免職にしました。目に見えるブロック塀以上に、教会には信仰だとか職制だとかいう険しい囲いがあるのかも知れません。
しかし、イエスご自身は弟子たちにこう言いました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:16)。これはとても不思議な言葉です。わたしたちは主の言葉を正しく伝えようとして集まり、教会という制度をつくり、そこに連なるために幾つかの通過点を設け、結果的に囲いを巡らして、その内側の仲間たちだけでひとつに固まろうと思っても、そもそもイエスご自身がその囲いの外へと赴かれ、いつの日かは囲いの内側にいるしかなかったわたしたちをも、囲いの外へと導かれようとしているのです。
「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」。囲いの外にいる羊たちが、イエスによって囲いの中に連れて来られて、やがて囲いの中でひとつの群れになる、とはイエスはおっしゃいませんでした。むしろイエスは、イエスの声を聞き分ける者たちを導いて、どこかを目指されているのです。一緒にその場所を目指す時に、わたしたちはもはや囲いの内と外などに分け隔てられることはなく、一人の羊飼いに導かれるひとつの群れになる、と言うのです。
わたしたちは、目を向ける方向を間違ってはならないのです。イエスの声を聞き分ける、ただそのひとつを持てば、いざとなったら無防備でいられるということを、この身に忘れてはならないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。高い塀を建物にも心にも巡らし、それによって安心を得ようとするわたしたちに、主は「囲いに入っていないほかの羊」をお示しになりました。わたしたちを導く主の言葉を聞き分け、いつの日か、わたしたちの心の凝り固まった囲いを取り除くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。