「オリンピック」という音が夢や憧れを抱かせるように響いていたのはずいぶん昔のような気がする。
3歳半で迎えた東京オリンピックのファンファーレをわたしは覚えていた。短調だが管楽器の奏でる華やかさが耳に残る。尤も本当に源記憶のなせる業なのか事後的にテレビなどで繰り返された結果なのか、今ではわからないのだけど。
11歳直前で札幌オリンピックが開かれた。ジャネットリンが尻餅をついたシーンも覚えている、尤も…(以下同文)。だが「虹と雪のバラード」は秀逸だった。トワ・エ・モアの美しいハーモニーは少年の心を揺さぶった。なんとも哲学的な歌詞。作詞者河邨文一郎さんは整形外科医だとはオドロキ。
外国で行われるオリンピックもそれなりに覚えているが、時差の関係で生中継を熱心に見るほどではなかった。数人の注目選手や競技もあるにはあったけどね。
近年はその浪費ぶりに目を曇らされている。「オリンピック精神」だとか「スポーツ礼賛」をどれ程繰り返されても、「結局カネでしょ」という醒めた目がそれを味気なくする。
加えて、競技する人間の競技における成長がそれをジャッジする人間の成長を凌駕してしまっている現実が、オリンピック自体に黒く不快な影を伸ばしているように思えるのだ。
「完成美」を競うものならそれも良いだろう。そもそも「美」は客観的な基準などないのだ。だが、高さや長さや大きさを競うなら、そもそも基本になる単位があってそれは不変だろう。メートル法を厳密に基準にすれば良いのではないか。或いはスポーツにとって最も厳密であるべき「ルール」というのがあるのであれば、そのルールは競技開始前に先ず適用されるべきだろう。競技後に抜き打ちチェックで失格続出という有様は、そもそも競技を公開する意味さえも疑わせる。
というわけで、なんだかなぁのオリンピックイヤー(厭〜)。