エレミヤ1:4−10/使徒9:1−20/マルコ1:14−20/詩編100:1−5
「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。」(マルコ1:17)
今日読まれました福音書は、イエスの宣教の一番最初に4人が弟子として招かれたという箇所です。
先日教会学校礼拝でヨハネ福音書にある、やはり最初の弟子たちが招かれる箇所を読みました。こういう箇所です。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア——『油を注がれた者』という意味——に出会った」と言った。」(ヨハネ1:40-41)
ヨハネ福音書では、イエスの最初の弟子となる者たちはバプテスマのヨハネの弟子だったのです。そのうちの二人がヨハネを離れてイエスに従って行ったのです。その二人のうちの一人がアンデレで、ペトロの兄弟だった。このアンデレがペトロをイエスのもとに連れて行ったのでした。
教会学校礼拝で何を伝えたのかというと、イエスの伝道というのは超アナログだったと言うことです。イエスの教えを信じてついて行くというその伝道のわざの一番最初は二人が三人になるというサイズなのです。わたしたちは非常に効率の良い道具をたくさん持っているでしょう。SNSのフォロワーさんが数百万人に達する有名人がたくさんいますよね。彼らが一言メッセージを発したら瞬く間に数百万人に届くのです。世界とその歴史の救い主であるイエスのメッセージも瞬く間に数百万人に届けられて然るべき内容でしょう。ところがイエスのテンポはそうではない。二人がやっとこさ三人になるのです。
今日のマルコ福音書の箇所でも、イエスに声をかけて集まったのはまず二人、次にまた二人でした。そういうテンポなのですね。
現代には現代の道具、最先端の機器を使って伝道するべきかもしれません。教会のつとめは伝道なのだからたくさんの人にイエスの福音を届けたい。そのためにどうすれば良いか。どういう方法で、なにを使って・・・とわたしたちは考えます。大きな伝道集会に憧れを抱いたりもする。毎週の礼拝が礼拝堂があふれるほど人が集まってくれることを望みもする。でも、イエスのテンポ、イエスのペースはなんだか違うような気がするのです。
四谷新生幼稚園は1952年にこの場所で始まりました。教会より1年遅れているので今年丁度70年になります。幼稚園の保育の中味は時代によって変わっていったと思いますが、幼稚園で聖書のことばは語り続けられてきました。70年の間の卒園生と今幼稚園にいる三学年の子どもたちを合わせるとだいたい二千人になります。つまり四谷新生教会は、四谷新生幼稚園を通して70年間二千人の子どもたちに福音を語り継いできたのです。その意味はとても大きかったのではないでしょうか。これがイエスのテンポを示しているようにわたしには思えるのです。
もちろんわたしたちはシタゴコロがあるので、子どもたちの背後にいる家族の中で何人かが洗礼を受けてくれればよいなぁと願っても来ました。それはなかなか叶えられないままですが、だから伝道のわざをおろそかにしてきたとは思えません。
だって神さまはわたしという人間がどういう者であるかをよくご存じでしょう。その上でわたしを用いようとされているわけです。ここに今集う一人ひとりを神さまはよくご存じで、それでも神さまの御用のために用いる、その計画にお前が必要だと仰るわけですよ。であれば、わたしに出来ない途方もないことを神さまがお命じになるとは思えません。出来るはずのことをお求めなのでしょう。
そしておそらく、イエスに招かれた最初の弟子たちもそうだったのだと思います。だから商売道具や父や使用人たちをそこに置いてでも、すぐイエスに従うことが出来た。特別な覚悟だとか難しい修行を求められはしなかった。もちろん従ううちにそういうことにも直面はするでしょう。しかしそれは、たとえ従わなかったとしても同じなのです。
ではわたしに出来るはずのこととは何なのでしょう。ひょっとしたらそれは「優先順位を変える」ということなのかも知れません。礼拝の最後の派遣の言葉はこう宣べられます。「主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。」。隣人と神とは優先順位がない同着ですよね。であれば一段下げるのは自分への固執です。わたし自身のことよりも隣人や神さまのことをちょっと先にする。神さまを先にすると、わたしたちは安心してその後に従い自分のことを委ねることが出来る。その時「人間をとる漁師」に変えられる。そうする生き方が「人間をとる漁師」の生き方になるのでしょう。
今、自らの不足や不十分を十分に思いつつ、しかし「わたしについて来なさい」と仰るイエスに、やはり従って行きたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。その理由はわかりませんが、あなたはわたしのことを必要だと仰います。全能の神であるあなたが、無力なわたしの手と足とをお求めになるのです。わたしに何が出来るのか、十分なのか、何もわかりません。しかし、あなたが「ついてこい」と仰るその言葉を信じて、わたしたちの主イエスに従います。どうぞわたしの心をあなたが支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。