【本日は録音機材不備のため、音声メッセージは掲載できません】
エレミヤ36:1−10/Ⅱテモテ3:14−4:8/マルコ7:1−13/詩編19:8−11
「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。」(エレミヤ36:2)
エレミヤというのはとても不思議な預言者です。
エレミヤと言って一番最初に思い出されるのはレンブラントの描くエレミヤです。今日は「アートバイブルⅡ」を持ってきました。その「エレミヤ書」にあるのがこの絵です。「エルサレムの滅亡を嘆く預言者エレミヤ」と表題があります。そして、アートバイブルはここにエレミヤ書25章の言葉を載せています。「それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。」(25:8−11)
画面からエレミヤの深い嘆きが伝わってきます。表題の通りエルサレムの滅亡を嘆く姿でしょう。でも、嘆きはエレミヤの生涯そのものであり、エレミヤは自分自身の運命を嘆いているようにわたしには見えます。だからエレミヤと聞いて一番に思い描くのがこの「嘆きのエレミヤ」なのです。
どうしてわたしが「エレミヤは自分自身の運命を嘆いている」と感じるのか。その理由はアートバイブルがこの絵に載せた預言の言葉そのものにあります。エレミヤは、祖国が滅ぶことを預言するわけですが、そして祖国が滅ぶことを預言する預言者は他にもいるのですが、エレミヤの独自性というか特殊なところは、エルサレムに引導を渡すバビロンの王ネブカドレツァルを「神・ヤハウェの僕」だと呼ぶところだと思います。
エレミヤが預言した時代はイスラエル存亡の危機の時代でした。北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたのが紀元前722年。南ユダ王国はしばらくアッシリアに隷属していましたが、紀元前609年にエジプトとのメギドの闘いで敗北してエジプト支配下に入り、エジプトと新バビロニアの対立によって最終的に紀元前597年にバビロニアのネブカドレツァル2世に征服されます。その後も暫くは独立国としての存続が許されていました。このつかの間の時に南ユダ王国はバビロニアにつくのかエジプトにつくのかで国内が二分され、エジプトと組んでさらに周辺の弱小国と連合してバビロニアと対抗しようとします。それがみごとに失敗して紀元前587年にエルサレム全体と神殿が破壊され、支配者や貴族たちがバビロニアに連行される。そういう時代でした。
そういう時にエレミヤは神の言葉として「わたしの僕バビロンの王ネブカドレツァル」などという預言をするのです。その立場は推して知るべしです。
前にも話しましたが、わたしは原子力発電政策には反対なので、そういう政策を推進する政権にも当然反対しています。ところが、わたしたちの国で現政権に反対する発言をネットで開陳すると、ちょっと前までは「朝鮮人の手先」と言われ、最近では「中朝の手先」と言われます。つまり中国や韓国の手先になってこの国を売る売国奴だと彼らは言いたいのだと思います。ネット上でわたしのことを見知らぬ人の発言ですから痛くも痒くもないのだけれど、100歩譲ってわたしが売国奴だとしてもせいぜい小商人、国を売るのにもっと商売上手な輩はたくさんいますよね。
わたしのことはどうでも良いのだけど、当時南ユダ王国でエレミヤは、やはり売国奴だと言われていたのです。敵対しているバビロニアが「神の僕」というわけですから、エレミヤの言葉に耳を傾ける者はほとんどいませんでした。彼は迫害され続けます。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている」(36:5)とはそういうエレミヤの状態を指す言葉です。人々が神の言葉を受け止めるには、まだ時間が必要だったのです。
エレミヤはエルサレム陥落後もその地に留まり、バビロニアから派遣された総督ゲダリヤの下で祖国再建を目指しますが、そのゲダリヤが暗殺され、バビロニアの制裁を恐れた人々によってエジプトに拉致され、彼はそのエジプトで悲劇の生涯を閉じました。時が満ちることを彼はその目で見ることができなかったのです。
しかし歴史は、エレミヤの預言が正しかったことを示しています。結局ヤハウェ信仰はバビロニアで捕囚となった人々によって担われ、神の声を正しく聞く道が開かれたのでした。国は滅んだけれども信仰は再生したのです。
イスラエルはその後も苦難の道を辿ります。救い主が与えられるまで、時が満ちるまで、まだしばらくの時間が必要でした。わたしたちが今、アドヴェントの時を過ごしているのもまた、時が満ちるのを待つことに他なりません。その時が満ちるまで、わたしたちはそれぞれ自分を見つめ直す時間として、その期節が与えられているのです。紫の期節なのはそのためなのですね。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが定めたその時をわたしたちは待ちます。しかし、待つことは勇気が必要です。待つことができずに、自分の力でそれを得ようとし、あるいはあなたを捨ててしまいます。わたしたちの弱さを赦してください。時が満ちるまで、わたし自身を振り返り、見つめ直すことができますように、わたしたちを導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。