創世記2:4b−9,15−25/黙示録4:1−11/マルコ10:2−12/詩編19:1−7
「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(創世記2:25)
先週お話ししたとおり、今日から教会の暦が変わって「聖霊降臨節」から「降誕前節」になりました。創造からキリスト誕生までの神の契約の歴史を旧約聖書の言葉から回顧しようというものです。
その第1週目にあたる今日は創世記が選ばれています。11月7日までの3回の礼拝で創世記が読まれます。今日は文字通り「創造」の箇所、次週は「カインとアベル」11月7日は「アブラハムの選び」です。こうして「創造からキリスト誕生まで」を本当に駆け足で辿るわけです。
恐らく教会で、礼拝だとか聖書研究会などで「創世記」が読まれたことは何度もあるでしょう。その創世記には先ず神さまがすべてのものをおつくりになったのだと書いてあります。
アメリカのある州では公立学校において進化論を教えることが禁じられたと報道があったのを今も覚えています。「進化論裁判」として知られています。自然界の進化の結果として人が誕生したのではない。神が人間の始祖であるアダムとエバをつくったのだ、ということのようです。これはかたちを変えていろいろな裁判として争われてきました。2009年2月にギャラップが発表した米国世論調査では「「進化論」を信じる人は39%にとどまり、全く信じない人が25%だった。36%は進化論に対して意見を持っていなかった。」とされています。おもしろいですね。皆さんはどう思いますか。創世記の最初の記事をどういう思いをもって読まれますか。
わたしは自分の出身神学校で1年生の一般教養科目である「キリスト教概論」を教えています。当然「創造論」も「神学」の一部として紹介します。その場合とても重要な聖書のことばは、例えば1章31節に出て来ます。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」。聖書は確かに「神は万物をつくった」「初めに、神は天地を創造された。」(1:1)と宣言します。それは単に神さまが積み木を組むように世界をつくったということだけでなく、神の思いが世界と共にある、それは今現在もそのままである、ということだと思うのです。だから「極めて良かった」「はなはだ良かった」のでしょう。
そして、人間は、何故なのかはわからないけれども人間だけは「神の似姿」としてつくられます。もちろん聖書は人間が読むものです。神の指で書かれたと信じる人もいるでしょうが、まぁおそらく誰か人間が書いたものです。だから、人間にだけ、特別な使命があると書かれていることにフシギはありません。もし犬に思想があるなら、ひょっとして犬たちは「神はその似姿として我々(犬)をつくった」と信じているかも知れません。鶏だって豚だって、そう思っているかも知れません。それはわかりませんよね。でも確かなことがひとつあります。犬も鶏も豚も人間も「神」ではない。そうではなく「神によってつくられた」存在です。当然すべてが「神の意志」「神の思い」によってつくられている。人間が読むものである「聖書」にもそう書かれています。「人間=だけ=」なのかどうかは議論の余地が残るとしても、少なくとも「人間=も=」つくられた存在に過ぎないのです。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(2:25)という言葉は、神につくられ神と共に歩む人間の究極的な幸せの姿を端的に表現した言葉だとわたしは思います。
余談ですが、創世記3章には人間の原罪についての物語があります。罪を犯したアダムとエバは「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(3:7)と書かれています。2章25節への応答ですよね。創世記はそれを「二人の目は開け」(同)と理由を書きます。神が共にいることによって高められていた自己肯定感を自分たちで思いっきり低めてしまう。それが「原罪」だと言われているかのようです。
余談ついでに、結局原罪を背負った人間は園を負われます。しかしその時神は「アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(3:21)とあります。自己肯定感を思いっきり下げてしまって、取り繕って生きることしかできなくなった人間はとにかくその手につかんだいちじくの葉で急ごしらえの着物を着るわけです。ところが楽園をついに追われることになるその時、神は手ずから皮の衣をつくって彼らに着せる。当然ですがこのために世界で初めて動物が人間の犠牲になる。生きている者の命を奪って生き存えざるを得ない人間の本性が顕わになった瞬間です。しかし神はそんな人間の本性をも御手の内にしっかりと抱き留めてくださっている。そういう物語ですよね。
わたしたちは、間違いなく神さまの御心によっていのちを得たのです。そして残念ながらそのいのちを必ず間違った使い方で汚してしまう。しかし神さまは間違うしかできない人間も含めて、「極めて良」い、「はなはだ良」い、とこの世界の営みのすべてを御手の内にしっかりと抱き留めてくださるのです。だからわたしたちは、あり合わせで取り繕うだけだったいちじくの葉を脱ぎ捨て、神さまが手ずからつくってくださった衣を着る。キリストを着るのです。与えられたいのちを、赦されたいのちを、ではどうやって使うのか。楽園を閉め出されたわたしたちには、その課題が残されたのです。それが「罰」であり、同時に「恵み」なのですね。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが世界をその御心のままにおつくりになって、このわたしを含めたすべての世界を「良し」としてくださったことを感謝します。必ず間違ってしまうわたしを赦してください。そして、赦された者として生きる小さな勇気を与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。