イザヤ書40:12−14/マタイ13:22/ローマ12:1/詩篇112篇
12:1「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と、「こういうわけで」と直前の11章に記されている事柄によって導かれています。
それは、「11:33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」と、あるように、また11:34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。…」と先ほどお読みいただいた旧約聖書のイザヤ書を引用しています。
旧約聖書のアブラハムから、神様の心を知っていた人が居たのでしょうか?まさに、創世記のアブラハムが息子のイサクを生贄に捧げることを命じられ、捧げようとしたとき、創 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」…この個所は神様の独り子イエス様の十字架を想起するとともに、神様の思いを私たちの理性や知性では、はかり知ることはできない事であり、主の思いに従って来た、アブラハムの信仰こそが、12:1にパウロの語られている、生きた生贄ではないかと思います。
ロマ12:1の後半の「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」は、次の節に記されている「12:2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」とあるように、この世に倣わないように、神の御心、神に喜ばれる者として歩むことと読み取ることが出来ます。
そして、世の中の邪悪な思いの中で生きているとき、神の御心をも見失いがちになります。また、神に喜ばれる生き方、そしてイエスに倣うことの困難さの中に置かれます。世の中の流れに沿うことの楽さに流されそうになる現実があります。
そのことは、10年以上そのように考えていましたが、ブルームハルト父子という書物を読んで、12章2節に続く言葉が大事であることに気が付きました。『むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』
自分の心を神様の思いへと、変えていただく事は、神様を礼拝すること、皆と一緒に礼拝に連なること、み言葉の解き明かしを受け止め、賛美を捧げ、祈ることで、神様の思いへと遅々とではありますが聖霊の導きによって、この世に漬かれた、汚れそうになっている思いや辛さを、神様の御心へと自分の心や思いが変えられていきます。
ロマ書12章1節は、そのまま読むと、『自分の身体を聖なる生けるいけにえとして献げなさい。』と読めます。
生きたまま捧げるということは、捧げた時点で自分ではなく、捧げた相手のものになるということになります。自分ではなくなってしまいます。捧げた相手の思いの内に生きればよいことになります。
私自身が受洗することを思った時、同じように洗礼を受ければ、イエス様の教えの通りに生きれば、世の中の患いの中から解き放たれると思いました。しかし、キリスト者として、世の中で働かなくては、ご飯を食べていけません。仕事をすることは世の中のルールや決まりごとの中で仕事をして、お給料をもらうことです。
世の中のルールにも、国の決めた法律、東京都が決めた都条例や区が決めるもの、業界の決めた資格や制度、業界の慣習のようなものがあります。又、会社の慣習や、同僚との付き合いもあります。
先ほどお読みいただいたマタイによる福音書の「13:22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」とありますように。私が、社会へ出て働く中で最初に、茨の中に飲み込まれてしまったのは、新幹線博多開通に伴う、当時の新幹線や列車の食堂車を運営していた”日食”という会社の博多の女子寮の設計の為、福岡へ出張した、入社して2年目位のころでした。博多の営業所は現場事務所を大きくしたような場所で、事務所にいる社員は皆、背広にネクタイはしているけれでも、現場上がりの人ばかりで、本社の設計部とはまったく雰囲気は違い、仕事は山積みで、毎日が残業で、残業の後は毎日飲みに行く生活で、飲めなかった私は、酒瓶を口にあてがわれ、強引に飲まされ、戻しては飲まされの地獄の世界を味わい、ひと月もすると身体はお酒になじんできて、三か月後に東京に戻ったときは、お酒がないと眠れないアルコール依存症になっていました。
私の勤めていた建設業界は、古い決めごと、業界で決めたことが、国の法に触れることもあります。又、政治と官公庁の癒着と工事がらみでの汚職の温床のような場所でもありました。談合は受注業者であれば、指定を受けた事業所間では公正なルールができています。私も、談合に参加したことが一回だけあります。
私は当時、若手で空調と衛生設備工事の設計ができて見積もりができる唯一の技術屋だったもので、官公庁の◇◇支店の新築工事の見積もり依頼が、〇〇の指定業社11社に図面が渡されましたが、渡された営業がびっくりするくらいの設備の設計図で、配管やダクトの図面はまったく書かれていず、空調機器の配置と機械の仕様書だけだったもので、その建築図面と機械の仕様書から、配管のサイズを計算し、ダクトの大きさをきめ、空調設備の図面と衛生設備の図面を作成してから、それを自分で見積もりするわけです。
談合の日時に、指定業者11社が営業と設計者が一堂に集まり。空調・衛生それぞれ、機械の値段、器具の値段、配管のサイズと長さと工事費を申告して。11社の見積の誤差がなんと10%以内に収まり、その談合の落札価格は、下から2番目の金額にすることで談合が成立しました。談合については汚職ではないため、業者の方では罪意識はありません。カルテルとかいう企業同士で話し合うという法律に抵触するようです。
そのように、世俗の業界ルールの中に法律を無視してしまうような仕事の中に、埋没しまっていたわけです。
私の一大転機は、大規模な福祉施設のコロニー建設の見積もりが入ったため、見積もりのできる設計部員として、見積もりの応援で関わりました。建築の設備費だけで見積金額が50年ほど前の10億円でした、経費を1割入れて、泊まり込みで行っていた、見積もりが出来上がり営業へ持っていったら、営業経費一割上乗せをしろとの命令で、見積書を作り替えました。福祉に行くはずの税金が汚れた使い方をされているわけです。自分のやっている仕事が虚しくなり、当時図面を書いていた、障害者の施設に興味を抱くようになりました。同僚の北朝鮮国籍の設計マンへの差別問題も重なり、施設職員への転職を決意しました。
転職を考えた当時は、自分の思いで生きていると思っていましたが、キリスト者として、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ」るかを日曜日の礼拝の説教や賛美歌や祈りを通して、しみ込んできた神様の思いに、漬物のように漬かって、神様の味わい時になった時をみはからって、神様が施設でわたしを用いようとしてくださったのだと思います。
長澤巌牧師の「やまばと学園」での2か月間の実習を経て、青梅市の知的障害者の施設で22年間重度の知的障害者と関わってきました。
先週の神学校で説教演習の荒瀬先生の授業で、今まで説教を聞いて印象に残っていることはありますか?とクラス皆に聞かれ、私は、天に召されています福田正俊牧師の説教で、聞いたときは意味がわからなかった「イデーではなく、人の思いでもなく福音によって生きるのです」という力のこもった言葉を思い出し、重度の知的障害者をどのように処遇するかで、「隣人を自分のように愛する」から、援助を必要とする方に寄り添い、より自立を促していける処遇を目指す方向で対応することが出来ました。当時、指導・教育(療育)は本人が望む意志が認められないのだから、施設では行わないという考え方が強く出ていました。私は、成人施設であったので、知的障害による理解力を補う道具や脳性麻痺を伴う方たちの作業用の道具を作ったり、広汎性発達障害の方たちのパニックを起こさないティーチプログラムの学びや行動療法を学ぶことで、援助の方法を広げていくことが出来ました。
礼拝に出席し、平日の仕事の疲れで居眠りをしていても、賛美歌を一緒に歌い、主の祈りを一緒に祈ること、聖書朗読を聞いて、御心を受け止めているのだと思います。
そして、「生きる 生贄とされ」今を、そして明日を、神様の御心を思い、御言葉に耳を傾け生きていると信じます。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神様、今日も御言葉を通して、あなたの計り知れない、あなたの御心を学ぶことが出来ました。私たちは礼拝へと導かれ、あなたによって徐々に変えられていき、あなたの思いによって、一人一人が与えられた賜物によって用いられます様に導いてください。この感謝と願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。