本日の聖句を読むと、私たちは偽善の滑稽さを笑いたくなります。けれど神様を見上げ祈る時は、全ての人間にとって最も罪を犯しやすい瞬間なのです。例えば、神に喜ばれている「良い子の自分」を期待したとたん、神は人間の引き立て役におとしめられます。そこで主イエスは、この自己執着・自己崇拝が神様の前まで私たちにくっついて来ることを明らかにされるのです。
主イエスは会堂や大道理の角に立って祈る人たちを偽善者だと言われました。その理由は、自分の信心深さを印象付けたくて、「祈りの人」としての評価を得たくて、彼らが祈りの時間にわざわざそこに出て来るからです。
もう一つ、祈りにおける自己崇拝のあり方に「人前で祈るとき、そこの同席している人たちに影響を主ぼしたいと考えて祈る」と言うのもあります。ある人たちは「神に献げるものは全て美しくあるべきだ」と言って、美辞麗句を並べ歌うように祈りました。神様への献げ物は美しい方が良いにこしたことはありません。けれど神様との真の交わりを求めて祈るとき、私たちの心は神様に集中していて、他の事が心に入り込むことはありません。
自分崇拝を求める人は自分が少しでも高く評価されることを願っていますから、周囲の芽や耳を意識して祈ります。彼らの望みは、葬式の略歴や死亡記事に「祈りの人」と書かれることです。けれどそれはこの世から評価であって、神さんからの評価ではありません。主イエスは、そうしたことを指して「彼らは既に報いを受けている」とおっしゃったのです。
では、本当の祈りのやり方とはどういうものなのでしょうか。主は密室に入るよう勧められています。密室に入って祈ると他人の存在を忘れます。人の目を気にする自分も忘れます。すると心は神様に対してだけ開かれます。そうすれば、主イエスが私たちの神が全能で永遠で、光であって暗い所が少しもない方であり、焼き尽くす火である神であるとの教えが真実だと分かって来るはずです。
ルターは毎朝仕事を始める前に2時間は祈っていたそうです。彼の祈りの長さは有名でした。けれど彼には祈らなければならない理由がありました。長く祈る理由を聞かれたルターは、「解決しなければならない課題があまりにも多いので、祈らなければ始められないのです」と答えています。つまりは、祈りなしには生きられなかったのです。
全ての信仰者にとって祈りは父なる神様とつながる命綱です。父なる神は先回りして私たちを祝福し、満たすこともおできになります。私たちが求めるよりはるかに強く、私たちに与えたいと思って下さっています。けれど神様は、子である私たちが何回でも来て頼み込むのを喜ばれます。私たちとの交わりがうれしいから、罪深さを悔いながら、必死で集中して父なる神に祈る私たちを喜ばれます。
素直な心で神を父と呼び、自分を含めすべてを捨てて神に向かってまいりましょう。
2017.6