主イエスはここで「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言っておられます。今までは「心の貧しい人は幸いだ」「義に飢え渇く人は幸いだ」と、漠然とした印象を与える表現でした。それがここでは「あなたがたは」と言ってくださっています。主イエスは今、あらゆる時代のキリスト者に向かって「あなたがたは地の塩・世の光」だと言われているのです。
塩の役目は塩味を利かせて料理をおいしくしたり、物が腐るのを防ぐことです。また、光の役目はその光によって周囲を照らし出すことです。つまり主イエスは「この世に対して「塩」や「光」の働きをするのがキリスト者だ」と言われるのです。
ところが私たちは、キリスト者の本質である「塩と光」の役目をとてもすばやく忘れます。そうした私たちの悪い癖を知っておられた主イエスは、こうも言われました。「塩に塩気がなくなれば、何の役にも立たない。外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけだ」。「ともし火をともして升の下に置く者はいない」。
もし私たちが真にキリスト者であるなら、他の人たちと必ず違っています。明かりを灯すのはその光で周囲を照らすためです。せっかく灯した明かりを升で覆っては、升が光をさえぎって明かりの役目が果たせません。それは愚かな行為です。けれど主イエスは、キリスト者がこの愚かしい行為をする可能性があると言われます。何故なら、そうするように誘惑する者がいるからです。
だから主イエスは言われるのです。「わたしはあなた達を隠れることのできない山の上の町のようなものとした。また光とした。だから、その光を隠すような愚かなことをしてはならない。光を放つという光の働きを隠したら、光はその存在価値を失ってしまう。そうなってはならない。光として存在しなさい。しっかり光らせなさい」。
例えばユリなら、まず花は薫り高く美しく咲きます。ではユリは花が咲いている時しか役に立たないかといえばそうではありません。枯れた花を土に戻せば、他の草花を育てる肥料として役立ちます。それに日本ではユリの根は高級食材です。けれど塩けを失った塩は土に戻しても肥料にすらなりません。塩けを失った塩はただ捨てるしかないのです。光を失った明かりも同じです。
ですから、真のキリスト者は自分がキリスト者であること、光であることを隠そうとしません。「隠せ、身を守れ」という助言は誘惑であり、サタンから出ていることを知っているからです。また真のキリスト者は、神様がどれほど多くの恵みを自分に与えてくださっているかを知っています。また神様は何らかの形で他の人々に良い影響をもたらすために、恵み豊かな自分を用いようと計画しておられることも知っています。だから、その人は自分が光とされていることを隠そうとしないのです。
「でもどうやれば、私たちが塩として光として用いられるのか分からない」。そう思われる方もおられると思います。そこで思い出すのが、主イエスが花婿を待つ10人の乙女の話(マタイ25:1-13)です。
10人の乙女がそれぞれ灯火を持って花婿を迎えに出ていきます。花婿が来るのが遅くなって全員眠り込んでしまいました。「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声に乙女たちは目を覚まし、それぞれの灯火を整えようとします。ところが乙女達の灯火は消えそうです。5人の乙女は予備の油を用意していたので、灯火を消すことなく花婿を迎えに出て行きました。けれど油を用意していなかった後の5人の乙女たちは油を買いに行かなければならなかったため花婿と一緒に婚礼の席には入れませんでした。
明かりを灯すためには油が必要です。私たちにとって明かりを灯すための油は、信仰者にとっての命の糧、主の御言葉です。
パウロは、各地の教会のために聖霊の働きを祈っています。聖霊の中心的な働きは異言を語るなど、人々の興味をそそる賜物を与えることではありません。それは私たちを真理へ導くこと、そのために必要な糧を与えることです。本日の聖句について言うならば、私たちが塩や光となれるよう、それぞれの内に御言葉を根付かせてくださることです。私たちが塩として光として存在できるのは、人となった御言葉・主イエスから復活の命をいただき続けている間だけだからです。
ここまで申し上げれば、私たちの内に御言葉が根付くよう、絶えず聖霊の働きを求めて祈ることの大切さがお分かりいただけると思います。祈りとは聖霊の恵みをいただきに行く行動なのです。
主イエスは「義に飢え渇くものは満たされる」と言われました。けれど私たちは欲望で飢え乾いていて、いつでももっと多くを求めます。主イエスに対しても「一度だけ満たしてくだされば十分です」なんて言いません。私たちが欲望でなく義に飢え乾くために、絶えず主イエスから新たな命を与えられることが必要なのです。
今こうして御言葉を読んでいるのも、光に必要な油を頂くためです。主イエスについて、主イエスが私達に差し出してくださる命について、私たちは御言葉を通して学ぶのです。
ペトロが側に居てくれたなら「あなたと同じように弱虫で物わかりの悪い私が山の上の町のようになれているとしたら、それは何度も何度も主から新たな命をいただいて変えられたからです」と言うでしょう。
さて油がたっぷりあれば、それで十分光り続けられるかというと、そうは行きません。江戸時代の行灯も、明治時代のランプも手入れが大事な仕事であったと聞きました。例えばランプの場合、手入れを怠るとガラスにススが溜まり火を灯しても十分に光ることができません。では信仰者にとって「自分の手入れをする」とは、どのような事でしょう。それは、キリスト者はこの世と全然似ていない存在だということを何度でも思い起こすことです。キリスト者の国籍は天にあること。だからこの世に属さずにこの世に生きる者だということを忘れないことです。
光は、光るか消えるかどちらかしかありません。キリスト者も同じです。人の思いは言葉や行動となって表れます。「態度がその人の人となりを示す」とも言われています。例え自分ではキリスト者だと思っていても、この世の価値観を手放さないならキリスト者ではありえません。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という言葉の中で、主イエスが「そのように」と言われている理由がそこにあります。
「そのように」するのは、私たちの行動を見て人々が「天の父をあがめるようになるため」です。他の人が私たちの行動を見、言葉を聞いて神をあがめ、神を喜び、神に身を委ねるようになる。「あなたたちは光の子なのだからそれができる。地の塩なのだからそれができる」。主イエスはそう言われています。
もし私たちキリスト者が真剣に地の塩・世の光として生きるなら、暗闇の中でもがき苦しむ人々の姿が見えてきます。その人たちの心を思って悲しまないではいられなくなります。それが「すべてのものは光にさらされて、明らかにされる」という言葉の意味だと、私は思います。そうなったらキリスト者は、本当に地の塩・世の光であった主イエスに似た者になりたいと願います。そして主イエスの言葉を自分に与えられた言葉として聞かないではいられなくなります。自分の言葉と行動によって栄光を神に帰すことができるよう、聖霊の働きを求めて祈らないではいられなくなるのです。
人々がキリスト者である私たちを見たとき、「何故この人たちは我々と行動や態度が違うのか? 彼らは我々の知らない何かを持っている。それを知りたい」そう思ってもらえるように、既に主イエスが祈ってくださっています。現実の生活は失敗ばかりであっても主イエスが言ってくださった言葉は必ずなると信じましょう。どんなに実感が無くても、その祈りによって既に自分を地の塩・世の光としてくださっているキリスト・イエスの愛を信じ、隣人の許へ向かってまいりましょう。