ホセア6:1−6/Ⅱコリント5:14−6:2/マタイ9:9−13/詩編107:1−9
「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5:19)
わたしが秋田大学を除籍になったということは「牧師の思い」の一番最初に書いたかと思います。学んでいたのは鉱山学部燃料化学科でした。当時わたしは化学に興味を持っていて、また特に1979年当時は新たな海洋開発・海底資源が注目されていたこともあって、海洋工学などにも強い興味を持っていました。でも、だいたい大学に進学するときに、その学問が一体どのような研究をするのかなんて考えもせずに、とにかく入れそうなところから選びますので、想像していたのと実際とはかなり違って相当ショックを受けたということも原因のひとつです。
学びの途中で挫折したので偉そうなことは何も言えないのですが、大雑把に言って当時わたしが学んでいたことは、Aという物質とBという物質を反応させてCという物質を得るための最良の方法は何かということでした。合成過程でどうしてもDというモノが出来てしまうからです。Dをなるべく減らして効率よくCという物質を得るためにいろいろな触媒を用いる訳です。
一方で自分のていたらくに直面してそのさなかで、ある時自分という存在がどう見ても、なるべく減らしたいDそのものに思えてきたのです。そう思ってしまったが最後、元には戻れませんでした。以後、「効率よく」みたいな考え方にはいつもいつも某かの引っかかりを抱え込むようになったのです。
効率よく行うためには、いらないモノや事柄を抑え込む必要があります。Dを減らしてCを増やすのです。あるいはDがどうしてもゼロにならないのであれば、できるだけ損失を減らした上で、多少の犠牲を最初から織り込む、あるいは損失を予め見込んで効率を考える。だから「効率」と呼ぶのでしょうね。「率」の問題。
閉ざされた実験系ではなく例えば国際社会にこれを当てはめると、一番わかりやすいのは戦争です。戦争は始めてしまえば犠牲はつきものです。必ず被害が出る。だから「多少の犠牲は致し方ない」ということが大前提になる訳でしょう。100人の兵隊の内犠牲が一人で済んだなら効率は99%、逆に言えば1%の犠牲で済んだ、ということでしょうか。
しかし、犠牲になった人、その家族親族にとってはその人の存在はいつだって100%です。1%であるはずはない。その一人を「多少の犠牲」などとと呼んではならない、絶対にダメでしょう。
戦争は極端かも知れないけど、わたしたちが普通に生活している中でも、どこかで「多少の犠牲はやむを得ない」という感覚を棄てきれない。まぁしょうがないとどこかで思い込んで、思い込まなければ前に進めない。そんなふうに思うのです。
ところがパウロはこんなことを言うのですよ。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」(5:14)。
一人が死んで他が助かった、というのがわたしたちの拠り所。効率でしょう。戦争であれ経済であれ、わたしたちは「効率よく」という呪縛から自由ではない。でもパウロは「一人がすべてのために死んだのであれば、すべての人も死んだのだ」と言うのです。そうでなければキリストの死は無意味になるとまで。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)。
教会でさえその歴史を振り返れば、多少の犠牲を求めてきたのです。イエスに敵対する者たちが「一人が死ぬことでみんなが助かる」と話し合ってイエスを十字架で殺したという事実を重々知っていても、教会もまた「多少の」という言葉で誤魔化しながら人々に犠牲を強いてきた。わたしたち日本基督教団の僅か80年の歴史を振り返ってもそうなのです。パウロ流に言えばわたしたちは今でもキリストの死を無意味にし続けているのかも知れません。
誰かが犠牲になることによって神の義が明らかになるのではありません。わたしたちの内の一人も滅びることなく神の恵みに浴させることこそ神の御心なのです。「主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩編107:8)。誰かを犠牲にし続けることから、わたしたち自身が先ず解放される必要があります。神の御心はそんなところにはないのだと。先ずわたしたちが目を覚まされなければならないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちはあまりにも簡単に「多少の犠牲はしかたがない」と考えています。神さまを求める以上にわたしたちは「効率」を追い求めているのです。そうしてキリストの死を無意味にし続けてきました。悔い改める心を与えてください。わたしたちの目をあなたの力で覚ましてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。