創世記21:9−21/ローマ9:19−28/マタイ8:5−13/詩編102:16−23
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ローマ9:24)
旧約聖書の創世記には、世界がつくられる物語の後に、いわゆる族長物語と呼ばれるアブラハム・イサク・ヤコブの物語が記されています。聖書のおもしろいところは、こういう族長たちはいわばユダヤ民族創世の偉人伝とされてもおかしくないのに、この者たちもひとりのつくられた人間としての限界をもっていたことを包み隠さず書き記しているところではないかとわたしは思います。
例えば、アブラハムは神との契約の相手とされた極めて重要なユダヤの始祖ですが、しかし何と驚くべきことに高齢であって彼の妻も年老いていて、そこに子孫が生まれ出る可能性がまるでなかったということが書かれているのです。神さまの驚くべきわざがその上に起こることの布石だと思えないことはないのだけれど、でも自分たちの民族の始祖のことを最初から重いハンディキャップを背負っていたと記すのは簡単なことではないと思います。
加えてアブラハムのことで考えてみたいことがあります。おそらく妻サラはアブラハム以上に、もはや子どもを産む望みがないことによって打撃を受け、あるいはその原因を自分に定めて苦しみ続けてきたのではないかと推察します。そして彼女が考えに考えた末にとったのは、自分の側女を夫に与え、側女によって子を得る決意を固めた行動でした。その結果側女ハガルによってイシュマエルが生まれるのですが、サラがイサクを生むと、ハガルもイシュマエルさえも疎ましい存在になっていくという悲惨な話しが書かれているのです。注目すべきはその苦境のさなかのアブラハムでしょう。彼はこの事態に対して何も出来ないのです。「何も出来ないアブラハム」という姿を聖書の中に晒している。おもしろいというか不思議・不可解でさえあります。「神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」」(創21:12-13)。サラが考え抜いた苦渋の決断とはいえ浅はかな行動の結果を、神ご自身が責任をとって下さった物語です。この物語の最後にはこう記されています。「神がその子(イシュマエル)と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。」(同20)。
つまりユダヤの族長物語の時点で、神の救いのご計画は決してユダヤに限定されていないことが意図され、そのように物語が編集されているのです。しかしユダヤでは長いこと、自分たちこそ神の契約の民なのだと自負してきたわけで、イエスの時代には異教の民──それが例えばかつて12部族として一緒だった北イスラエルのサマリア人でさえ──親しみをもって交わることが律法で禁じられるようになっていたわけです。
パウロの時代には異邦人もまたイエスの福音に接し、洗礼を受け仲間に加わる者が大勢出ていたのです。しかしそれでは不十分だと教える者たちがいたのです。そ
して洗礼を受けた異邦人にも敢えて割礼を要求する。それが神の定めだと言う。
それに対してパウロは敢然と立ち向かったのです。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれた」「それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであった」と、同胞イスラエルに向かってパウロは言います。神は罪人たちを即座に滅ぼすのではなくなお生かしておくことで、一見すると彼らを放置しているように見える。しかしそれこそが神の怒りの表れだとパウロは言うのです。こうして人間には悪へと突き進む道が与えられたのです。その道を突き進む者は自分に距離を置いて静まって考えるなんてことは出来ません。それを耐え忍ばれることで神は人間に栄光に与る準備をさせるための時を置いているのだと言うわけです。自分に距離を置いて静まって考える者たちは、そのために選ばれたということなのでしょう。
救われるのか滅ぼされるのかは二者択一ではないのです。何故なら、救われる者が救われるのは、自分の力で救いを得たのではないからです。神の御心を見出したからです。あくまでも神の御心が先にあって、わたしを救いたいと願ってくださっている神を見出したから、なのでしょう。だからわたしたちがやるべきことは、気づいていない人が気づくように、範を示すということでしょう。「範を示す」というのは「立派なわたしを見て見て!」というのとは違います。「わたしに気づきを与えてくださったかたを見て!」ということです。そこにこそ真実があるからでしょう。
そう考えたら、「洗礼を受けたから聖餐に与るのは当然」というのもヘンな話しです。その人が偉い、洗礼を受けたからエラいのであれば、そう言い切ることに問題は一つもありません。でも、そうではないでしょう?。むしろわたしたちは自分の愚かさにもかかわらず働かれる神さまのわざを、言い換えればこんなわたしのために救いを祈り続けてくださる神ご自身を発見した、だから悔い改めの洗礼を受けた。応答の行為です。それに過ぎないのです。「洗礼を受けて救われたわわたしを見て見て!」という態度は、伝道でもなんでもない。真逆です。神が、このようなわたしを憐れんでくださった。ずっと憐れんでくださっていた。最初から定められている人もいるかも知れないけど、そうではないわたしもまた、数に入れてくださった。救われるに値するからではなく、神がそうしてくださったから救われた。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ローマ9:24)これはそのまま、わたしたちの信仰告白です。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。本当なら滅ぼされてもしかたのないわたしが救われることを、あなたが望んでいてくださる事実を知りました。神さまの救いのご計画がわたしのためにもあったのだと知りました。感謝します。それゆえに、あなたに従う道を勤しむ決意をもって洗礼を受けました。その道を歩み通すのは厳しくて、何度も挫折を続けています。その度にあなたが待っていてくださることを教えられます。今週こそ、との思いをもって今日ここに集いました。どうぞ導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。