イザヤ49:14−21/使徒4:32−37/マタイ6:22−34/詩編133:1−3
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(使徒4:32)
幼稚園では毎月の合同礼拝に向けて先生たちで聖書研究をします。一学期は主に創世記の天地創造とそれに続くノアの箱舟やバベルの塔の物語を読み学んでいます。
天地創造の物語は非常に有名です。天地のあらゆるものを神さまはことばによって──つまり神さまのご意志によって──6日間でお創りになります。そして一日のわざの終わりにはつくられたものを御覧になって「はなはだ良かった」と確認されます。
ところが、天地創造には2種類の物語があって、創世記第2章は全く別の天地創造物語が書かれています。そしてこの2章の物語の中に「良くない」と神が思われることが記されているのです。その箇所を読んでみますね。「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」」(創世記2:18)。人間に罪が入り込むよりずっと前の話です。神さまは「人が独りでいるのは良くない」と考えていたのです。そこであらゆる生きものをアダムの前に連れ出します。アダムはそれぞれに名前を与え、その名を呼んだのでした。名前を呼ぶというのはとても重要な行為です。信愛の表現でもありますが、同時にそれを支配することにも繋がります。しかし既にある生きものの中には「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(同20)のでした。そこで神さまはもう一人の人をつくります。アダムはそのもう一人の人をイシャーと名付けます。イシュから取られたからだ、とその理由が記されています。これをイシャーと名付けた、ということが先ほどの生きものに名前を付けることと基本的には同じ行為なのでしょう。創られた順番と名付けの行為によって、長い間キリスト教では男性が支配的であることの正当性が与えられてきたのでした。
しかし、神さまが問題にしたのは「独りでいるのは良くない」ということだったはずです。人間は関係性の中にあるべきだ、社会性の中にあるべきだ、というのが本来の神さまの主張なのだとわたしには思えます。男女でなければならないとか、その際は男が支配的であるべきだというようなことは、問題の本質とは無関係です。そして人間は関係性の中に社会の中にいるべきであると運命付けられていることが、人間にとって哲学的にも実際的にも大きな難題を突きつけ続けることになるわけです。
職務上いろいろな人の悩み事の相談を受けることがあります。その経験上、人間の悩みの正体はほぼ間違いなく人間関係です。一見するとそうではない事柄のような相談でも、根本的なところでは人との関係のこじれがあって、そこから問題が派生していたりもします。「人が独りでいるのは良くない」という神さまの思いは、ひょっとしたら「人は関係の中で悩み続け、その悩みの中から喜びを見出しなさい」という意味なのかも知れないなぁと思ったりもします。
今日、使徒言行録を読みました。原始共産制などと呼ばれる弟子たちの共同体の、それも理想的な有様が綴られています。ただ、残念なことにこの夢のような原始共産制の共同体は長くは続きませんでした。パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中にあるように、共同体の中には裕福で働かなくても良いものもいて、そういう人たちは早い時間から食事を始めていて、貧しくて遅くまで働く人たちが共同体にたどり着いたときには彼らの食べるべき分がもうないということが実際にはあったようです。使徒言行録の中にも原始共産的共同体の中で一人ひとりへの分配物について不平不満が溜まりに溜まっていた状況が伝えられていて、それゆえに執事が選ばれ任職を受けることになったと記されています。
理想的な教えとかみんなの熱意とか一つの思いとか、そういうものがどれだけあったとしても、人と人とが関係する「社会」というものの中に置かれればそれはいつでも理想と現実によって寸断されてしまうものなのかも知れません。人と人との関係とは、悩みの種以外の何ものでもないのかも知れないのです。
ところが、同じく今日お読みいただいた詩編にはこういう言葉がありました。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(113:1)。何も特別な教えとか人々を一つにする熱意とか、そういった前提は何も語られずただ、「共に座っている」ただそれだけで「恵み」であり「喜び」だというのです。何も問われることなく、何も課されることもなく、ただ一緒に座っているそのことが恵みであり喜びなのだ、と。
神さまが「良くない」と考えた、その本質がこの詩篇133編に書かれているということなのでしょう。そしてこの短い133編がわたしたちに問いかけるものはとてつもなく大きいのだと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたはわたしたちを、社会の中に生まれさせ、人と人との間に生きるようにと定められました。それはわたしたちにとってなんとも苦難の多い、しかし確かにそこにしか慰めを見出せない、不思議な場所です。しかしどうぞその場所で共に座る喜びを、これからも体験し、また隣人との間にその経験を広げてゆくことが出来ますように、一人ひとりを強め支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。