アモス7:10−15/使徒13:1−12/マルコ6:1−13/詩編107:17−22
使徒言行録は、単に新約聖書の第5番目の書物であるということだけでなく、初代教会が当時をどのように生きてきたのかを伝える貴重な資料でもあります。もちろんキリスト教の側から伝える資料に過ぎませんので、そこに記されていることは必ずしも「真実」ではないかもしれません。キリスト教のバイアスがかかった、キリスト教に味方する者の目で見た「事実」が記されているのであって、歴史家の叙述のように広い視野で公平に出来事を見抜いて綴られたものではないのです。ですから、そこに記されている「事実」から「真実」を導き出そうとすれば、出来事をかなり割り引いて考えなくてはならないでしょう。それでも、初代の使徒たちや、教会を形作っている名もない信徒たちの生き様の少しは伝わってきます。彼らがまず直面したのは同胞イスラエルが自分たちに対して取る、「神の名」による迫害でした。そしてその事実は直ちに、イスラエルを実効支配するローマ帝国の「神」、つまり「王」の名による命の危機を意味していました。先行きに暗雲の立ちこめる中を、しかし彼らは今はやりの言葉で言えば「ブレる」ことなく進んでいったのです。
わたしたちは今日、「沖縄の日・教団創立・旧6部9部弾圧」を憶えます。3つの日付を年代順に並べ替えれば、教団創立が1941年24日、弾圧記念日が1942年26日、沖縄の日が1945年23日です。出来事が起こった年代順に並べ直して、もう一度これらが何の日だったかを簡単に見ておきたいのです。
1941年6月24日は日本基督教団が創立した日です。事柄に則して言うと、教団の創立総会が開かれた日です。諸教会はかねてよりこの日本における福音主義教会各派がそれぞれの教派を越えて合同しようと願って始まったのが、教団の創立でした。このことは教団教憲の前文にも出て参りますし、「第2次大戦下における日本基督教団の責任の告白」にも出て参ります。「教憲前文」には、それが「くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって」と表現されています。さらに、「教憲」のあと「教規」があるのですが、その間に「生活綱領」というもがあり、その後に「日本基督教団成立の沿革」というものがあります。この「成立の沿革」には「たまたま宗教団体法の実施せられるに際し、1940(昭和15)年10月17日東京に開かれた全国信徒大会は、教会合同を宣言するに至った。」と記しています。ということは1941年の創立総会前に教会合同が宣言されたわけですが、「合同宣言」がなされた全国信徒大会の正式名称は「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」でした。ですから、この時行われたことは「たまたま宗教団体法の実施せられるに際し」「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」で宣言されて、そして始まったのが日本基督教団だということです。これは決して忘れてはならないことでしょう。この出来事において何を忘れずに記憶すべきかは、次の日付を考える時に明白になります。
教団創立の翌1942年6月26日未明、教団第6部・第9部所属のホーリネス系の教職96名が治安維持法違反で特高警察により検挙され、後さらに20名が追検挙されます。行政当局はすぐさま201教会63伝道所に解散命令を発します。司法当局は検挙された教師を特に組織の中心人物ほど罪を重くする判決を下します。教団は解散を命ぜられた教会主管者、廃止された伝道所代表者に自発的辞任を勧告し、その他の両部教師に謹慎を命じました。この一連の出来事は政治的に仕組まれたものでした。ですから、検挙された個々の教師がどのような言動をとっていたのかは問題にされませんでした。実際に検挙された教師たちも、検挙を免れたホーリネス系のその他の教師たちも、なぜ検挙されたのか、されなかったのかはわからなかったと言います。
ところが、日本基督教団はこの事態に対して、当局の術策に見事にはまったのです。日本基督教団の教会関係者には、この検挙が当然のものと写ったり、累が及ぶことを何よりも恐れて、一層当局の望む方向に突き進みます。具体的には総務局長から各教区長へ、ますます天皇に忠誠を励むようにという通達文書が送られます。さらに、第6部・9部の教職・信徒に対してその信仰を「錬成」し直し、教会や伝道所を「更生」させようと努力したのでした。むしろこの教団のとった行為こそ、特高警察や当局が行った事柄よりも厳しい「弾圧」だったとわたしは思います。なぜなら、こうすることによってホーリネスの教職・信徒の信仰のアイデンティティーを、日本基督教団自らが剥奪したわけですから。
日本基督教団の始まりが「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」であること、「宗教団体法の実施」に際したことだったというのは決して偶然ではなかったのだということが浮かび上がります。日本基督教団はその成立時に、国家に対して、いやもっと正確にいうならばキリスト教の教える唯一の神ではないもの、人間をこそ神とする日本・天皇教の中に組み入れられることを良しとし、積極的に求め、自己の安寧を諮ったと言わざるを得ません。それはさらに次の日付にもつながってゆきます。
1945年6月23日。沖縄で日本軍による組織的抵抗戦が終了した日とされている日です。これも事柄に即して言えば牛島中将が自害した日のことです。沖縄県では県条例によってこの日を「慰霊の日」と定めました。島は23日早朝から祈り一色に染められると言います。けれども、本当は沖縄戦で殺された市民の多くが、実はこの日以後に受難しているのだという事実は案外知られていません。統計によればいわゆる「沖縄戦」によって亡くなった市民の80%もの人が、6月23日以後に亡くなっていると言われています。結局「終結宣言」は「終わりの日」ではなかった。戦闘行為そのものは9月7日まで続けられたと言われています。これは牛島中将が自決に際し「爾後各部隊ハ各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ。」と指令していたことに関係があります。多くの人が終結宣言のあとで亡くなっている。6月23日で沖縄から戦火が消えたわけでは決してない。この事実を忘れるわけにはいきません。
その後の沖縄は、天皇の存置と引き換えに米国に売り渡され、1972年5月15日に施政権が返還されました。日本基督教団は沖縄への施政権が米国に渡ったことから九州教区沖縄支教区をなんの意思決定もせぬままに切り捨てました。尤も何の意志決定もせずに切り離されたのは朝鮮支教区や台湾支教区、樺太支教区も同じでした。「中国残留孤児」の問題などは教団の問題だとは思わないのかも知れませんが、本質は一緒です。敗戦によって全てを免れたと頬被りしてきただけです。
ここにも日本基督教団の成立の背景が色濃く現れています。
これが、わたしたちの教団の成立と、それにまつわる創立期の歴史的出来事です。敗戦後日本を占領した戦勝国はキリスト教国だったゆえに、敗戦後の混乱を制して再建に向かうために連合軍は日本のキリスト教をチャンネルとして活用しました。その結果、日本のキリスト教は戦争の責任を亡き者ににすることができた。教団の戦争責任などが問題になることはなかったわけです。公式に戦争責任に言及したのは1967年です。旧6部9部の教会関係者に教団総会の場で謝罪と悔い改めを行ったのはそれからさらに20年後の1986年です。
これらの歴史的出来事はいわばわたしたちの教団に於ける負の歴史事実でしょう。しかし、だからこそわたしたちはこれを無いことにしたり、忘れたりしてはいけないのです。この罪を乗り越えることはわたしたちには出来ないでしょう。けれども、この罪を教会の歴史にしっかりと刻みつけておくことは出来ます。それは確かに、世の栄光を受けるにはふさわしくない傷です。けれども、世の栄光を失うことを恐れる必要はないのです。むしろそれらと訣別し、神の栄光を求め、神の熱意に突き動かされる教会であろうと決意をする。それが今日の主日の意味です。
初代教会の人々が、厳しい局面にあっても神を見据えて歩んだように、かつてそれが出来なかったわたしたちは心して、今度こそは神のみを見据えて歩むことが出来るようになるために、今日覚えられている日を忘れることなく胸に刻んで、歩みを進めてゆきたいと願います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの御前に大きな罪の足跡を残してきたわたしたちです。それを知らされもせず触れることもせずに、自分たちの罪を亡きものにしてきました。しかしあなたは、悔い改めて立ち帰る者を必ず赦し導いてくださいます。そのあなたの救いのご計画を主イエスによって示されたわたしたちが、今懺悔し、これからの歩みを進めてゆこうと決意するとき、どうぞそばにいてわたしたちを支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。