イザヤ60:19−22/フィリピ2:12−18/マタイ5:13−16/詩編67:2−6
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)
先週教会学校礼拝でマタイ福音書5章を読みました。5章は「山上の垂訓」などと呼ばれるイエスの説教がまとめられているその初めの部分です。6日に読まれた箇所は「地の塩、世の光」と呼ばれる有名な箇所です。「あなたがたは地の塩である。」(5:13)とか「あなたがたは世の光である。」(5:14)とイエスが群衆に向かって教えられた箇所です。
教えている相手は群衆です。だからイエスを信じている人もそうではない人もいたはずです。わざわざおしえを聞きに来ているからってイエスの信奉者とは限りません。ユダヤ当局のスパイが紛れ込んでいることも容易に想像出来ます。
ところがイエスはそういう群衆全体に対して「あなたがたは地の塩である。」(5:13)とか「あなたがたは世の光である。」(5:14)と言うのです。「信じる者たちが塩だ、光だ。信じない者たちは滅ぼされる。」とか言うのであればなんとなく納得出来るのですが、そうではない。信じていない者たちも、あるいはガリラヤ出身の無学な者たちを貶めようと構えていた者たちでさえ、「塩」であり「光」だとイエスは言います。さらに、「がんばって塩になれ、光になれ」とも言わない。今、このままで、「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」と。信じようが信じまいが、良い人になるために努力をしようがしまいが、今あなたがたは間違いなく塩であり光だと言っているわけです。
これはとてつもないことです。このわたしも塩であり光であるというのですから。振り返って見てもそんなに大それたことなんか出来ていませんでした。人々に存在を知らしめ、その道を照らすような光ではなく、むしろ身を隠していたくなるような歩みでしかなかったからです。事実、今の自分の中には決してつまびらかには出来ない様々な闇がたくさんあって、辛うじて抱えているのです。そのわたしに向かってイエスは「地の塩だ、世の光だ」と言い切る。全く迷いなく言い切っておられる。それは紛れもなく弱く乏しい存在であるはずのわたしたちに対する神の側の揺るぎない信頼のこれ以上ない現れです。神さまが愛して下さる。人に伏せたい闇を抱えた者でも、神さまはそのままで愛していて下さる。「塩だ、光だ」と言って受け入れ、進むべき道に連れ戻して下さるのです。
お読みいただきましたフィリピの信徒への手紙は「獄中書簡」と呼ばれる、間違いなくパウロが書いた手紙です。1章を見ると、パウロは今投獄されていることがわかります。そしてフィリピの教会の人たちがいつもパウロを支え助けていてくれたわけですが、そのために送り出されたエパフロディトが瀕死の病気に罹っていることも2章を見ると書いてあります。この世的に見て「良い」「喜ばしい」ことなんて何もないのです。ところがこの手紙の別名は「喜びの手紙」です。パウロ宛の献金が届いたことに対する感謝と喜びの礼状だからには違いないわけですが、しかし今置かれている実情は決して喜びあふれるような場合ではない。にもかかわらずパウロは全てを喜んでいて、そればかりではなくエフェソの教会のみんなにも喜んでもらいたいと言うのです。パウロやエパフロディトが経験している現実の苦しみが、苦難が、彼らに光を確信させる恵みであったからです。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(エフェソ2:16)。
パウロはたとえ今獄中にいても光を見出している。エパフロディトが瀕死の病気のさなかであっても、そこに神さまの御手を見出している。なぜなら彼らがそうやっていること自体が神さまによって生かされていることに他ならなかったからでしょう。
その同じ神さまが、今、確かにわたしを照らしてくださっているのです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)。私のうちに神さまが働いてくださっている。そのことを信じ、そのことに希望を置いて、与えられた今週へと歩みを進めていきたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの大いなる光をわたしたちは見ました。そしてあなたがこのわたしを揺るぎなく愛していてくださることを知りました。どのような今も、あなたの愛と光を感じることの出来る「今」なのだと知りました。どうぞ苦しんでいる者、悩んでいる者、闇を抱えている者が、あなたの光に照らされ、今、光になっているのだと信じることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。