イザヤ6:1−8/エフェソ1:3−14/マタイ11:25−30/詩編99:1−9
「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」(使徒17:30−31)
わたしたちは、自分も含めた「人間」についてどう見ているでしょう。今日の礼拝の主題は「悔い改めの使信」です。「悔い改める」ということを考える主日ということなのでしょう。わたしたちは「悔い改める」べき人間だと、キリスト教はそう考えてきたということなのかも知れません。
「悔い改め」という言葉自体がとてもキリスト教的な言葉です。この言葉を試しにインターネットで検索したら、出てくるのはほとんど全部キリスト教のサイトです。稀にWeb辞書系のページも出て来ますが、項目語の意味として「キリスト教で自らの罪を懺悔して神にゆるしを願うこと」などと出て来ます。つまり「悔い改め」なんてキリスト教でしか使わない言葉だということですね。
人生の途中でキリスト教に出会った人の中で、決して少数とは言えない人たちが「あなたは罪人だ」という言葉にギョッとしています。生まれながらのクリスチャンは「原罪」なんていう概念をいつの間にかストンと腑に落としてきますので「あなたは罪人だ」と言われたら「アーメン」とか言っちゃうわけです。
人間の罪と救いは、どういう関係なのでしょう。
ちょっと古い話になりますが、ヒッポのアウグスティヌスという人がいました。紀元350年頃の人です。彼はこんな言葉を残しています。「アダムより生じた滅びの土塊が存在した。これには罰のみが与えられる。しかし、この同じ土塊から作られる器には名誉が与えられるよう定められている。なぜなら、陶工が粘土の同じ土塊に対して権威を持っているからである。どんな土塊か。それは、既に滅び、正統な断罪が既に確実な土塊である。」(神の選びについて)。アウグスティヌスは、人間は皆罪の土塊だと言います。でも陶工つまり神の権威によって、名誉の器としてつくられることが出来ると言います。土塊の名誉によるのではなく陶工の権威によるのです。
ところがそのように述べるアウグスティヌスに猛反発する人がいました。ペラギウスです。こう言います。「人間の称賛は、良い行いを意図し、行うことに存する。あるいはむしろ、この称賛は、人間と、意図し行う可能性を与えた神の両者に属する。神はまた、まさにこの可能性を恩恵の助けによって補助する。誰かが良い行いを意図し行う可能性は、神のみによる。」(自由意志弁護)。
アウグスティヌスは、人間に関わるあらゆる事について神の優位を強調するのです。滅びに至る土塊に過ぎないものを名誉ある器にできるのはただ神によるのだ、と。だからその神を信じ、神の約束、救いの約束を受け入れることによってわたしたちは救われるのだ、と。
一方ペラギウスは、神が人間に無理難題を押しつけるわけはないのだから、人間が罪を避ける能力を神は確かに与えてくれているはずで、人はもともと良い行いをするように創られているはずだ。それをしないままで救いを得ることは出来ないというわけです。
この論争は世紀をまたいで続きます。そして、とても有難いことに正統的キリスト教はアウグスティヌスの言葉を採用し、ペラギウスの考え方を退け、断罪します。救いはただ、神の恵み、しかも無条件の恵みに依るのだ、と。行いが救いの条件にはされなかったのです。おめでとう!ありがとう!ですね。
神によって救いが補償されたのであれば、わたしたちに悔い改める必要はないのでは、とも思えます。そもそも良い行いなんてできないのだから、と。そうなのでしょうか。
イエスは、神を愛することと隣人を愛することは同じ事で、二つの間に優劣はないと示されました。まさに十字架ですよね。上と下に伸びる縦の線はわたしたちと神さまの関係を示しています。そして横に伸びる線はわたしとあなたの関係を示しています。両方揃って初めて十字架です。神に赦されて救われることになったわたしたちが、隣人との関係を壊したままで良いはずはない。そして本当のことを言えば、目に見えない神さまとの関係を修復するより、目に見える隣人との関係を修復することの方が数万倍も難しいでしょう。つまり本当は神さまとの関係修復だって数万倍大変なのです。見えないから軽んじているだけであって。でも一方隣人との関係は、見えている現実で、利害も絡み合うとても厄介なことです。だからこそ悔い改めが必要なのだと聖書は語り続けるのでしょうね。
「この世を正しく裁く日をお決めになった」(使徒17:31)。もう期限が迫っています。わたしたち一人ひとりに残された日々は、悔い改めの日々だということなのかも知れません。
祈ります。
すべての者をお救いになる神さま。あなたが今まで大目に見てくださっていたのだということを、そして正しく裁く日が既に決まっていることを、今日改めて知りました。聖霊の助けによって、残された日々を隣人との和解のための日々としてください。それでもなおあなたはわたしたちを救ってくださる方であることを信じ、わたしの全てをお委ねできますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。