イザヤ6:1−8/エフェソ1:3−14/マタイ11:25−30/詩編99:1−9
「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11−12)
先週、聖霊が降ったことをお祝いするペンテコステでした。それを記念して、次の週、つまり今週は神さまの三つの位格が全て揃った主日という意味で三位一体主日と呼ぶわけです。でも、別にペンテコステの時世界で初めて聖霊が降ったわけではありません。
よく知られている物語で言えば例えばイスラエルの初代の王様になったサウル。彼がサムエルから油を注がれ、主の言葉を告げられたときに、サムエルは神の言葉が真実である証しに、今日起こる不思議な事柄を全てサウルに伝えます。それが全部その通りになるのですが、その伝えられたことの一つが、サウルの上に神の霊が降るということでした。「ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。」(サムエル上10:10)。サウルの次の王であるダビデにも度々神の霊が降りました。「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」(サムエル上16:13)
あるいは大国によって国が滅ぼされるという出来事を神の裁きだと考えたヨエルは、恐ろしい神の裁きのあとで、その神がイスラエルを豊かに顧みてくださるそのしるしとしてこういうことを言いました。「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1-2)。もはや全ての人に神さまの霊が注がれるというのです。奴隷にまでも主の霊が注がれ、彼らもまた預言をするようになると。
選ばれた一握りの人が、神からも特別な賜物を授かって、だからこそ彼らには権威があって、人の上に立つのだと思っている人、ましてや自分こそそれに相応しい人間だと思っている人は、サウルやダビデに神の霊が激しく降ることは許せるかも知れないけど、全ての人や奴隷にまで神さまの霊が降るなんてことは受け入れられないのではないでしょうか。そんなに神さまの恵みを安売りして良いのか、と。
聖餐式で、パンとぶどう酒とを全ての人に配る教会が批判されます。神学的に見てどうかという批判があります。まぁ、神学者たちはそれで飯を食うのだから、たくさん議論したらよろしい。でもこの議論、普通のキリスト教信徒たちはせいぜい「俺は洗礼を受けて初めて、ようやく、パンとぶどう酒を受けられるようになったのに、洗礼を受けていない者がパンとぶどう酒に与るのは、ズルい」。そういう感想ではないかとわたしには思えますよ。それ以上に学問的な批判なんて、あるはずがないし必要もないです。選ばれた、一握りとまではいわないけど、選ばれた者が、者こそが与るのであって、だから意味がある。だから権威がある。みんなに配られたらそれこそ大安売りではないか、と。
おそらくパウロという人は、そういう人だったのではないでしょうか。彼は律法学者たちの中でファリサイ派というもっとも厳格なグループに入っていて、その中でも周囲から認められるようなエラい人だったのでしょう。そのために努力もしてきた。だから当然、神さまが選んでくださるならわたしだと、全く躊躇うことなく立候補できた人だったに違いないのです。それなのに、神さまの恵みを大安売りしている貧しいヤツらがいた。見ると田舎から出て来た漁師たちのグループだという。彼らに神さまの何がわかる。いい加減なことを触れ回るヤツらは神さまに罰せられるに違いない。神が何もなさらないなら、わたしが神に代わって神さまの御心の通り彼らを罰してやろう。そう考える人だったのです。だからはるばるダマスコを目指して、イエスこそキリスト、油注がれた救い主という意味でしょう、といい加減なことを触れ回るヤツらを根絶やしにしようと追いかけたのです。
そのあと一歩のところで、彼が逆に神さまに捕らわれた。彼が最も大事だとしてきたモノサシを、神さまはあっさりと打ちやぶった。そして、彼がもっとも嫌っていた、神を「お父ちゃん」なんて呼ぶようなヤツらのあり方こそ真実だと気づかされたのです。神の霊は全ての人に、奴隷にまでも注がれ、神がそう思われるなら誰でも預言するようになる。最初から神さまはパウロをそうして見守ってきていたということに、あの時初めて気がついた。
選ばれた一握りの人が、神からも特別な賜物を授かって、だからこそ彼らには権威があって、人の上に立つのではない。みんなが相続者なのだと、神がそのように思われるなら、どんな人間が神さまにそれを思いとどまらせることが出来るでしょう。わたしたちは、自分で気づいている人も、気づいていない人も、皆神さまによって導かれているのです。神さまに愛されていて、「約束されたものの相続者とされ」(エフェソ1:12)た、それが事実なのです。わたしたちがどうあれ、神さまはわたしたちを愛していてくださる。今も、これからも。聖霊が共にいるとは、そういうことなのですね。
だから、愛されている者として神さまのみ心を行う者となる。神に代わって正義の力を振るう、鉄槌を下すのではありません。そうではなく、この世に神さまのみ心を携えて生きる者となるのです。たとえ神さまなんて信じないという人がいても、その人は「約束されたものの相続者」ではあり得ないと誰が言えましょう。それは神さまが決めること。わたしたちは生きている限り、神さまがなさるそんな不思議なわざを目撃しつつ歩む、神さまの不思議なわざの証言者として歩むのです。
祈ります。
すべての者の救い主イエスさま。あなたが教えてくださったとおり、わたしたちは神さまに愛されていました。わたしたちはそれに気づかなかったけれど、確かにあなたが教えてくださったとおりでした。そして世界の全ては、神さまのそのご計画によってうまれたのです。わたしたちが、神さまの豊かな富の目撃者とされていること、証言者とされていることを感謝します。わたし自身は乏しくとも、どうぞ神さまの御心のために用いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに祈ります。アーメン。