哀歌3:18−33/ローマ5:1−11/マルコ10:32−45/詩編22:25−32
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。」
(マルコ10:42b-43)
あまり皆さんにお話ししたことのないこと、そしてひょっとしたら話す必要もないことなのですが、ちょっとしたわたしのこだわりというか、大事にしていることをお話してみます。
礼拝が終わると毎回「ティータイム」という時間があります。後の小ホールで礼拝後に、参列した人たちでお茶やコーヒーを飲みながらお話しする時間です。これはわたしが大切にしている時間の一つです。なので、遠慮せずにみんなに加わってほしいです。
で、その中でわたしがちょっとこだわっていることは、このティータイムの準備をするのはわたしの仕事にしているという点なんです。「牧師にやらせるのは申し訳ない」なんて思わないでください。わたしがこだわって好きでやっていることなので、やらせておいてください。そもそもイエスは「人に仕えよ」とお命じになっているのですが、私にはそんなこと出来ないのです。だからせめてティータイムの準備はする。それで大目に見てもらおうという魂胆です。全然足りないのですけれどもね。
イエスの復活を書き留めたヨハネ福音書には面白い箇所がありますよね。復活したイエスがティベリアス湖の岸辺に立っていて、舟の弟子たちに向かって「何か食べるものがあるか」と聞く。でも一晩中やっても何も取れなかった彼らは「ありません」と答える。で、イエスが「舟の右に網を下ろせ」というと、ものすごい数の魚が捕れます。で、弟子たちも岸に上がると、イエスは炭火を熾していて「朝食を食べろ」と言います。全部用意されている。そこに弟子たちの働きの一部が加えられるわけです。そうやってイエスは弟子たちの働きを労って朝食に焼き魚定食を振る舞ったのでした。最後の晩餐の場面でも、この復活の焼き魚定食の場面でも、パンを割き、魚を分けているのはイエスご自身です。イエスは言葉の通り給仕をしているのです。本当はそれは奴隷の仕事でした。人にご飯をつぐこと、お茶を入れること、後片づけすることは全部奴隷の仕事だったのです。でもイエスはご自身でそれをなさったのですね。
とても大げさに言えば、そのことを思い起こすために、わたしはティータイムでお茶の用意をしている。ただしシタゴコロありあり、ということです。
もう一つこだわっていることをお話ししますね。わたしたちの教会の聖餐式はコロナを経て、個包装のウェハースとぶどうジュースを使うようになりました。でもほんとうのことを言えば、私としてはひとつのパンをその場で割いてみんなに渡し、みんなはそれぞれ自分でそのパンをちぎって食するようにしたいのです。
防府教会でも川崎教会でもそのようにやっていました。防府教会には病気で半身が思うように動かない女性がいました。彼女はパンを自分でちぎるようにしようと提案したときにものすごく怒りまして、「わたしは自分でちぎることが出来ない」と訴えたのです。でもわたしは言いました。「もちろん、あなたが自分でちぎることが出来ないのは良くわかっている。でも、自分でちぎれないあなたを放っておくような人はこの教会にはひとりもいないよ。あなたが自分でちぎれないパンを、誰かが必ずちぎってくれるから。」。それ以来この方法を続けてきたのでした。この聖餐式でのわたしのこだわりは、誰かがパンを持っている、その誰かが持っているパンからちぎるということです。つまり、誰かに給仕されることが大事なのです。パンをちぎるなんてたいしたことではありません。だから自分で持って自分でちぎるなんてとても簡単です。でも、それでは意味がないのです。誰かに給仕してもらったパンをとって、それを食べるときに、「これはわたしの体である」というイエスのことばが、ご自身で給仕をなさるイエスさまの姿として目の前に現れるのです。いつか、何の心配もなくなったら、ぜひそんな聖餐式をやりましょう。その日が来るまで、今は個包装を配ります。でもせめて、配餐するかたは、配り終わったら牧師が皿を持ちますから、そこから取ってください。配ったついでに、自分の持つ皿から自分で受け取る方が簡単だしタイパに優れているかもしれませんが、そうしないで給仕されることが大事だと思う。それがわたしのこだわりなのですね。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。」(マルコ10:42b-43)とイエスは弟子たちに言いました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが求めたのは「力」や「権威」でした。12人の中で一等と二等につかせてくれ、と。他の弟子たちはそれを聞いて憤慨します。俺だって一等になれる、わたしの方が一等に相応しい、って。そういう弟子たちに対してイエスはこう言います。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(同43b−44)。
二人の弟子は権力を欲しがり、出し抜かれた他の弟子たちはそのことに不快感をあらわにします。よりよく生きるためには力が必要だ、そうでなければ生き残れない。だからわたしたちは子どもに競争させる。人間には競争原理が生まれたときから本能として備わっていると思い込んでいる。力が、権威/権力が、あるいはお金の力が、生きるためには必要だ、と。それが不足している者は、自分より更に不足している者を見つけ出して優越感を持ったり安心を得ようとします。自分より上の者は見ないかいない者とする。そうでなければいつかその地位に取って代わろうと闘争心をかき立てる。それがわたしたちであり、わたしたちが子どもに教え込んでいることです。
そんな思惑だけが満ちるど真ん中にこそイエスは来られたのではないでしょうか。そしてわたしたちに、そうではない別の生き方、別の道を示したのです。神と人、人と人とを繋ぐ給仕として生きよう、と。でもそんな生き方はこの世では受け入れられず、ジャマにされ、ついには十字架につけて殺されます。でも、本当にそうですか。イエスが示された新しい道、新しい生き方は、本当にお伽噺でしかないのですか。わたしたちは相変わらず人を蹴落とし、人より力や権威やお金を余計に得ようとすることだけに血眼になるのですか。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(同43b−44)。そのために殺されてしまったイエスこそが本当は勝利されたのだと、わたしたちは心から信じることが出来るでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。主が示されたもう一つの道、全く別の道の開かれた可能性に、それを信じて自分を託することが出来ますように。多く持つ、強くなる幻想から醒めることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


