イザヤ48:1−8/Ⅱテモテ1:8−14/マルコ8:27−33/詩編31:8−14
「ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(マルコ8:29b-30)
わたしたちはイエス・キリストが救い主であることを心から信じています。そしてわたしたちはおそらく機会があったらイエス・キリストが救い主であることを宣べ伝えたい、伝道したいと思っている。おそらく間違いないだろうと思います。
これはもはや想像する以外にないのですが、イエス本人は自分のことをどのように思っていたでしょうか。
前にお話ししたとおり、イエスはバプテスマのヨハネが行っていた荒れ野での洗礼運動を継承する者として見込まれていたにもかかわらず、その場を捨ててむしろ人々の生活の場に出ていって、生活の場こそ神の国であると宣べ伝えていたのです。彼の働きの中心は、一緒に食事をすることでした。あらゆる人と一緒に、です。その殆どはいわゆる律法に違反する行為でした。だからイエスの周りにいた人たちはみんなイエスの行為を驚きと喜びをもって迎え入れていました。一方、ユダヤ教の指導者たちにとっては気に入らないことだらけでした。だからイエスのあらを探し尽くし、神を冒涜する発言をことさらに取り立ててイエスを殺す証拠に仕立て上げたのです。
そういうイエスでしたから、おそらく本人は自分の行いが世界中の人々に受け入れられることを願ったとか、あるいは立派な新興宗教として自分の運動が大きく成長するようにと願った、ということはあり得ないのです。つまりイエスは、イエス教の教祖になろうとは考えず、あるいはユダヤ教の宗教改革をしようとも考えず、ただ、いま生きているすべての人間が神さまから愛されているというイエスにとっての重要な事実をそのまま人々に伝えようとした、その方法としてあらゆる人と一緒に食卓を囲んだ、ということです。
それはユダヤ教の社会の中で疎外されていた人たちには大きな希望だったに違いありません。彼らが、イエスの驚くべき奇跡、時に五千人に、時に四千人に食べ物を与える瞬間を共にしたらどうでしょう。ここにこそ驚くべき神さまのわざが現わされた、そのわざを行うイエスこそ、わたしたちを解放する、ユダヤからもローマからも解放するメシアに違いない、と思ったことでしょう。
周囲が大きな期待を寄せて自分たちのリーダーを見ている。それは当然イエスのそばにいる弟子たちの気持ちを高揚させたことでしょう。「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」」(マルコ8:28)。そしてペトロが決定的なことを答えます。「あなたは、メシアです。」(同29b)。
例えばマタイ福音書は、このペトロの告白をイエスご自身が高く評価して、ペトロに天国の鍵を預けるということが起こります。ですが少なくともマルコ福音書はペトロに対してそのようなご褒美は全くありません。「メシア」という言葉を否定しているとも読めます。少なくとも、人々が考える意味でのメシアであることは受け入れなかったのです。その代わり、人々のメシア観を一変させるようなことを語ります。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(同31)というのです。しかも、イエスはわたしたちに対して「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(同34)とまで仰います。
ひょっとしたらわたしたちがやるべきことは、イエスのことを人々に触れ回ることではなく──それはイエスご自身が「自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(同30)ことでもあります──、イエスが十字架への道を躊躇わずに歩みを進めた、その姿に従い、わたしもまた自分の十字架を担って、自分の人生を生きることなのではないか。そう思うのです。
マルコ福音書は今日の箇所を「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。」(27)と書き始めています。「その途中」だったのです。振り返って見れば、わたしたちのいのちはいつだって、どの瞬間だって、それは「その途中」です。たとえ臨終の床であっても「その途中」なのです。小栗善忠牧師の葬儀で式辞を述べた小栗献牧師は「神が彼の「生き」を引き取ってくださったようだった」と述べておられましたが、たぶん、いえ間違いなく、わたしたちの「その途中」である人生を終わらせてくださるのは神ご自身なのでしょう。それは信仰者としての私の「信仰」も全く同じでしょう。わたしの信仰それ自体がそもそも神さまから与えられていて、それを受け取るわたしたちはいつまでも途中でしかない。信仰に完成とか終わりとかはないのです。そしていつでも途中だからこそ、わたしたちはわたしたち自身を深めることが出来ます。
幼稚園の現場では「プロセスこそが大事」と良く言われます。何が出来たかという結果が大事なのではなく、そこに向かってどういう試行錯誤が行われたのかが大事なのです。人が育つということは、そもそもいつでも「途中である」ことに意味がある。
わたしたちは人生の途中でイエスに巡り会えた。そして人生の歩みを彼と共に歩む。そこにはいつでも新しい気づきがある。不明を恥じる必要はないのです。そういう生き方もまた自分の十字架を担って、自分の人生を生きることなのだと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。私の人生の途上で、私を救い主と巡り合わせてくださったことを心から感謝します。このかたによってわたしたちは、自分のいのちに意味があることを教えられ、だからこそどう生きるかを考えることが出来ます。その一つひとつが、途上にあるわたしたちにとって実に大きなことなのでした。あなたがそのようにしてわたしたちを導き続けてくださることを感謝し、また信頼することが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


