エレミヤ2:1−13/エフェソ6:10−20/マルコ3:20−27/詩編18:1−7
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」(マルコ3:21)
わたしたちにとってのイエスのイメージはどうでしょう。「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)などと思う人はまずいないのではないかと思います。ではだれが、イエスをそんなふうに思っていたのでしょうか。
イエスのメッセージ、イエスの生き方は「あの男は気が変になっている」と言われるほどに衝撃的だったということかもしれません。それでも「群衆」は、喜んでイエスを受け入れ、その言葉もその行いも、生き方も肯定していたのです。
この場面でイエスの周りにいたのはそんな群衆でした。彼らはイエスが病人を癒すのを見て、自分も癒してほしいと押し寄せた人たちです。イエスの周りで、イエスにすがりつこうとしている多くの人たちは、誰もイエスを「あの男は気が変になっている」とは思わないでしょう。助けてくれる人、癒してくれる人なのです。その人たちを苦しめる病気の元である悪霊は──現代ではもちろん、病気は悪霊が引き起こしているとは誰も考えません。でも当時は確かに全てが悪霊の仕業でした──どうだったのか。とても不思議なことですが、悪霊たちでさえイエスの言葉には従うのです。11節にはこうあります。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。」。イエスを救い主だと告白しているのは悪霊の方であるという、これは驚くべき場面設定です。イエスは側に押し寄せる群衆にとって崇められ慕われる存在であり、悪霊にとっては従うべき存在なのです。ここには誰も「あの男は気が変になっている」という人はいません。
では誰がそのように言いふらしていたのでしょうか。それはイエスを殺そうと謀った人たちであり、あるいはイエスの世話になどならなくて一向にかまわない人たちであり、あるいはイエスがむしろこの世の安定をかき乱すものだと思っているような人──裏返せば今、生活するのになんの心配も不安もなく、神の祝福を有り余るほど受けられる人たちこそが、イエスを「あの男は気が変になっている」と言っていた。しかも、イエスの身内も、そしてさらに進めばイエスの母も兄弟も、少なくともイエスを、世間様を騒がせる困った存在として取り押さえようとしているのです。
今日、イエスは家にいます。ご自分のナザレの家ではありません。恐らくはカファルナウムにあるシモンとアンデレの家だったのではないかと思います。イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)と言ったと伝えられていますので、今日の最初のところで「イエスが家に帰られると」(マルコ3:20)といきなり書かれていると驚きます。でも問題はそれどころではないのです。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。」(同21)のです。どうして。それは「「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」(同)と。これがイエスの家族が取り乱した原因だったのです。イエスが常軌を逸している、しかも、誰か他の人が言っているだけのことではなく、家族の者がそれを確認し、その通りだと同意する何かが実際にあったということでしょう。そして今、家族はイエスを取り押さえに来た。ここで使われている「取り押さえに来た」という言葉は、律法学者たちが後にイエスを捕らえた時と同じ言葉です。つまり家族の者はイエスの行動を排除したいという強い意志があったということです。
どうしてそこまでこじれてしまったのでしょう。イエスが中心にしたことは「神の御心を行う」(同35)ことでした。でも、わたしたちは違います。大多数のわたしたちにとって、時間と生活のほとんどは自分自身の意志を遂げるための闘いなのです。それはイエスの家族の者にしても同じでしょう。そして、だからこそ親族はイエスに正気に戻ってほしかった。
実際どちらかが「気が変になっている」のです。わたしたちか、イエスか。
もう一度言います。イエスは彼を慕う人、彼を必要とする人、弱く小さくされた人たちにとって受け入れられ、悪霊にさえ完全勝利する方でした。ところが、世のなんの不自由もなく、神の祝福を有り余るほど受けている人たちが、イエスをして「あの男は気が変になっている」と言い、身内の者や母や兄弟が取り押さえに来るほどだった。そして、悪霊に完全に勝利する力あるイエスは、何不自由なく神の祝福を受けて、あるいは神を独占している人たちによって捕らえられ、殺されたのです。イエスを殺したのはこの世の権威の中で何不自由なく暮らすことのできる人、この世の体制を補って完成させている人たち、つまりこの世で、堂々と「正しさ」を主張できる人たちだったのです。
人間が「正しさ」を主張するとき、それは悪霊の力よりも勝る。しかもイエスを殺すほどのどす黒い力となって膨れあがる、ということでしょう。
ひょっとしたらわたしたちもイエスのメッセージや生き方を全てそのままで受け入れることは出来ないかもしれません。そうではなく自分の都合の良いところを取り出して、あるいは自分に都合よく作り直して、イエスの言葉や生き様を受け入れているかもしれません。もしそうではない、わたしはそうではない、イエスのありのままを受け入れることができるというなら、わたしたちはこの世では数に入れられることもない極貧の中で生きる者、あるいは差別されている者、社会から抹殺されている者、人々からは「気が変になっている」と言われる者ということになります。それでもなければ、イエスの教えによって、その生き様によって、自分の生き方を根底から変えた者以外にはあり得ないのです。
わたしたちはイエスを受け入れ、従うことができるでしょうか。それなのにイエスは、そういうわたしのために、苦難を受け、十字架でいのちを奪われたのです。わたしの「正しさ」がイエスを殺し、イエスはわたしの「正しさ」のゆえに殺されたのです。出来事をそのままに見つめれば、そういうことになります。その事実を受け入れること以外に、受難節を生きる意味はありません。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。私の正しさゆえに主が苦しまれたことをいつも覚えることができますように。神さま、あなたのお示しになる正しさをせめて見つめながら歩むことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


