ヨナ1:1−2:1/ヘブライ2:1−4/マルコ4:35−41/詩編125:1−5
「イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」」(マルコ4:40)
この教会に赴任する時に車を手放し、以後必要な時だけ車をレンタルする生活になってもう5年が過ぎようとしています。特段不便を感じなくて済むのが都心という立地のおかげなのでしょう。でも、時々レンタルした車を運転すると、どんどん運転すること自体に自信がなくなっていることにも気づきます。まぁなんとも超安全運転。特に後ろの車には過度にイライラさせる原因をつくってしまっていることを感じます。路側帯に停めて、後ろの車に道を譲ると、彼らはものすごいスピード──まぁ傍目には普通のスピードですが──で追い越して行かれます。そのうしろ姿に心の中でそっと謝ったりしています。ハンドルを握ってブイブイ言わせていた頃から考えると、随分オトナになった、オイタなぁと感じます。
だからかも知れませんが、今私の運転で同乗する人は、どんなに眠気が襲ってきても安心して眠れないかもしれません。車の運転の上手な人だと、同乗していて気持ちよく眠れるものです。一方、運転の癖が違う、例えばブレーキを踏むタイミングとか、そのブレーキを踏む強さとか、そういったことが自分とちょっと違う人が運転する車では、安心してウトウトも出来ないなんてこともありますよね。結局、眠れるということは運転者を信頼しているということなのかも知れません。運転する側からすれば、同乗者が眠っているということは、自分の運転を信頼してくれているということなのでしょう。助手席で眠りこける人をあしざまに非難してはいけませんね。信頼されているのです。そのことをもっと優越感を持って受け止めるべきでした。
そこへいくと今日のマルコ福音書に出てくるイエスさまは、じつによく眠っていらっしゃいます。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」(マルコ4:37−38)。
マルコ福音書の編集によると、イエスの宣教活動は1章からすぐ始まり、すぐに4人の弟子を選び、病を癒しみんなに驚かれたという報告が続きます。そして先週読んだ「中風の人を癒す」物語あたりから、ユダヤ教の指導者たちとの間にいろいろな論争が始まります。さらに癒やしの記事は続くのですが、その間に今日の箇所があります。
その時間軸に従えば、イエスに選ばれてついていった弟子たちは、今日の4章の頃にはもう、イエスがこれまでの誰とも違う癒やしを行う驚くべき人という認識を充分に持っていたのだと思います。ところが、ガリラヤ湖のプロである漁師の弟子たちでさえ恐れるほどの突風が起きたのです。驚くべき奇跡を起こすイエスに向かって「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(同38)なんていう悪態をつきたくもなった。それほどに非常事態なのだということでしょう。
何度も言いますが、弟子たちのうち4人はガリラヤの漁師です。湖に舟を出して生計を立てていたのです。様々なことを経験してきたはずです。「板子一枚下は地獄」とは日本の諺ですが、ガリラヤでも漁師の経験はそういうものではないかと思います。そういう経験を彼らは積んできたのです。
ところが今、想定外のことが起こって彼らは狼狽えています。経験が全く活かされない。スキルが役に立たない。どうして良いかわからず神に叫んでも神は応えない。神なんていないのではないか。いたとしたらどうしてこの状況を見捨てているのか。そして艫の方をみるとイエスが眠っている。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(同38)。
わたしたちはイエスが起き上がって波と風とを叱ることで嵐が収まる、ということを普通注目します。そして弟子たちと同じように「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(同41)と思う。それで解決してしまうのです。つまり、イエスが寝ていたことにはほとんど注意が払われないのです。おそらくマルコもイエスが風や湖をも従わせる方であるということを注目させたいのだと思います。でも、だからこそ気になります。イエスは元漁師たちでさえ慌てふためくほどの嵐の中でどうして眠り続けていたのか。
先ほど車の運転のことを話しました。同乗者が車の中で眠るということは、運転者を信頼しているからではないのか、と。もしそうだとしたら、この時イエスもまた弟子たちを信頼していたということなのではないでしょうか。イエスは弟子たちを信頼していたからこそ「艫の方で枕をして眠っておられた」のです。もちろん弟子たちが慌てふためくことも、彼らの力ではどうしようもなくなることもひょっとしたらわかっていたでしょう。それでもイエスは弟子たちを信頼しているのです。
信頼するということは丸投げすることではありません。あるいは自己責任を求めることでもありません。むしろ尻拭いをしてくださることです。しんがりをつとめて下さるということです。だから安心してやってみなさい、と声をかけて下さっているのです。
神がわたしたちを愛していて下さるとは、そういうことなのかも知れません。天国行きのキップを手にしたから、あとは何もしなくても神さまが良きに計らって下さる、ということではない。たとえどのような事態になっても、神さまがしんがりをつとめて下さるのだから、わたしたちはわたしたちに与えられた全てを用いて、やれることをとことんやって良いのだ、と。別に5タラントン儲けても良し、1タラントン儲けても良し。でも、与えられた賜物を使おうとせず、土の中に仕舞い込むことは許さない。そうではなく、わたしたちの経験や力を、信じてくださる方がいる。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(同40)。不安の先には、神さまが用意してくださった新しい道が準備されています。だから安心してやってみなさい、そのみ声を受けて歩む者でありたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。何よりも神さまが、わたしを信頼してくださっていると、主はお教えになりました。神さまの信頼の下で、わたしたちはわたしたちの信じる事柄に向かって歩みを進めることが出来るのです。神さまがいつもわたしたちのしんがりをつとめてくださる。その神さまを信頼して歩みを進めることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


