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2026
25Jan

「救い─神が起こされたこと」小林久実牧師

  • 今月の説教

https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2026/01/20260125.mp3ダニエル12:1−3/ヨハネ11:1−27/詩編29:1−11

 「ある病人がいた」今日の御言葉の書き出しです。この病人はラザロ。ラザロとは「神が助けである」という名前です。この人にはマルタとマリアというふたりの姉妹がおりました。マリアはイエス様の足に香油を塗った女性であることをヨハネは語っており、またマルタとマリアの姉妹のことはルカによる福音書でも語られています。イエス様と非常に親しい、イエス様ご自身が愛しておられた家族です。
 姉妹はイエス様のもとに人をやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と告げさせました。イエス様は言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と。この先、ラザロは死にますが、納められていた墓からイエス様の言葉によって起き上がることになります。
 「神の栄光」とは、イエス様が死者を蘇らせることを語っておられるのでしょうか。いえ、死者を蘇らせることは、聖書の中でエリヤもエリシャもパウロも、それをしたことが記されています。イエス様が受けられる栄光とは、単に死人の蘇りの奇跡ではありません。イエス・キリストの栄光とは、主の十字架の受難と死を指します。イエス様のこの言葉は、ラザロの病とご自身の十字架の死を重ね合わせて語っておられるのです。
 イエス様の十字架の死は死のままで終わりませんでした。主は死なれましたが復活されます。それは、イエス・キリストにあってどのような病も、この世の苦しみも悲しみも、苦しみのままでは終わらない、さらに死で終わるのではなく新しい命の恵みへと移される。「栄光」とは、神が人間に表された救いの出来事を表す言葉であるのです。そしてその栄光は地上の人間に於いて「信仰」と結びつけられるのです。
 それにしても、イエス様はラザロが病気だと聞いて、すぐに駆けつけるということをなさいません。そして遂に二日後、「さあ、ユダヤに行こう」と弟子たちに言われました。ラザロのいるベタニアはユダヤの村です。すぐ側がエルサレムです。この時イエス様の命を狙っているユダヤ人たちが居ます。そのことを案じる弟子たちに、イエス様は不思議な言葉を語られます。「昼間は12時間あるではないか。昼のうちに歩けば、躓くことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、躓く。その人の内に光がないからである」。これから起こる出来事は、光による出来事、イエス様ご自身が光として導かれるということを仰っているのでしょう。イエス様の光を心に灯して歩むなら、躓くことはなく人は導かれるのだと。そして言われました。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。
 これを聞いて、弟子たちはラザロはただ眠っているということをイエス様が仰ったのだと思いましたが、イエス様はラザロの死を「眠り」と呼ばれたのでした。この時、ラザロは既に肉に於いて死んでいた。そのことをイエス様は知っておられます。イエス様は、まだ見ぬことを知ることが出来るお方であられました。さらに言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。
 イエス様がベタニアに着いた時、ラザロが死んで葬られて既に4日も経っておりました。イエス様が来られたと聞いて、姉のマルタはイエス様を出迎えます。
 妹のマリアは家の中に座ったままでした。イエス様はなぜ早く来て下さらなかったのか、家の中にじっとしているマリアの心にはイエス様への怒りと何故という心があったのでしょう。
 マルタは申します。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。マルタは「今でも」と言いました。「今でも」葬られて4日経った今でも、あなたにはお出来になると。マルタは縋るような思いと共に、イエス様なら今でも出来る、愛する兄弟の死を超えた出来事をイエス様はお出来になると、信じているのです。この言葉はマルタの信仰の言葉です。
 マルタの信仰の言葉を受けて、イエス様は言われました。「あなたの兄弟は復活する」と。マルタは答えます。「終わりの日に復活することは存じております」。
 マルタはユダヤ人であり、彼女は旧約聖書の教えを知っておりました。お読みしました旧約聖書ダニエル書12章2節「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。あるものは永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」は、旧約の時代――とはいえ新しい時代ですが――の復活信仰の言葉です。終りの時、永遠の命に入れられる者と、永遠の憎悪の中に置かれる者とに分けられる。それがユダヤ人ファリサイ派の人々の復活信仰でした。キリスト信仰はこの信仰に結びついています。
 更なるマルタの信仰の言葉を受けて、イエス様は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。イエス様はあくまでここで「信じるか」、「信じる」という信仰を求めておられます。その信仰の内容とは、イエス様を信じる者は死んでも生きる、滅びに至ることはない、永遠の滅びを免れるというイエス様への信仰を通して現されるまことの命の道への招きです。
 ヨハネによる福音書の中でイエス様は、ご自身を「命のパン」と言われ、また「羊の門」であると言われました。イエス様を通ってこそ、人はまことの救いに至るのです。神の顕される救いとは、世の死を超えた、まことの命の救いのことでありました。イエス様を信じる者に、命の救いが与えられるのです。信じる者にとって世の死は終わりではない。永遠の命、神共にある命を受け取ることが出来るのです。イエス様は、この時、その事を、マルタの信仰に応えて宣言をされました。
 「このことを信じるか」。問われたマルタは、さらに信仰を告白いたします。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。主は、私たちの信仰を通して、「栄光」を十字架と復活の救いを現されます。ラザロはこの後、墓から出て参りました。ラザロの出来事、これはイエス・キリストの十字架と復活の栄光のしるしです。そして人はキリスト信仰によって、まことの命の救いへと入れられるのです。

祈ります
 憐れみ深い主なる神様、あなたはひとつの命を救うために大いなる熱情を持って働かれるお方です。イエス・キリストこそ、復活であり、命です。私たちの生涯にはさまざまな悲しみ、苦難が襲うことがあります。しかしあなたは私たちの祈りを聞いて下さる神。私たちはあなたに寄り頼み、祈り叫び求めながら生きてまいります。あなたの愛と憐みが私たちひとりひとりの上に、この集められた人の群の上に、限りなく豊かにありますように。この祈りをイエス・キリストの御名によって御前におささげします。アーメン。

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