エレミヤ1:4−10/使徒9:1−20/マルコ1:14−20/詩編100:1−5
「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マルコ1:17−18)
大学生の頃住んでいた学生寮には寮独自のサークル活動があって、大学の近所の看護学生たちと一緒に活動していました。
当時私は将来に対する計画などまるでなくて、なんとなく受かりそうな場所としてだけ大学を選んでいましたので、全く不熱心で不勉強な学生でした。一方、一緒に活動している看護学生たちは高校卒業する時点で既に「看護師になる」という明確な目標を持って学校を選び学んでいる人たちでした。だからそういう決意をする人たちがまぶしく見えました。それだけでなくとても不思議に思っていたのです。どうしてそんなに明確に自分の将来を決められるのだろうか、と。
日本には「天職」という言葉があります。
「天職」とは、辞書を調べるとだいたい「天から授かった職業」とか「その人の性質・能力にふさわしい職業」という意味で使われています。あるいは「神聖な職業」として、神父、神官神主といった神に仕える職業を指すこともあります。
一般的に言って、多くの人は自分にとっての「天職」と出会うことがとても大事だと考えているのではないでしょうか。天職と出会いさえすれば、朝起きた瞬間から「今日も大好きな仕事、めいっぱいガンバルゾー!」といった感じになり、毎日やる気マンマンで人生もうまくいくのになぁ…、と。そう願うということは今がそれとは真逆にいるということの証拠でもあるわけですが、だからでしょうかビジネス心理学と呼ばれる部類の本とか転職雑誌や転職サイトとかにはそういうセリフがたくさん並んでいます。この世界のどこかに、自分にぴったりの職業があるはず、どこかに青い鳥がいるに違いない、そんな感じでしょうか。
一方、天職を英語にすると「Calling」という単語が出て来ます。動詞である「call」の現在分詞形です。callは「呼ぶ」ことですから、「点呼、召集、天職、(神の)お召し、職業」等の意味で使われます。さらに強い意味として「強い衝動、欲求」という意味もあります。「呼ばれている」というイメージはまさに「神の思し召し」というイメージですね。日本のビジネス心理学などでいう「天職」はその主語が「わたし」であるのに対し、「Calling」の主語は「神」、もしくはわたし以外の何か、です。だから強い衝動とか欲求という、セルフコントロールできないような領域のことも表すのかもしれません。
出会えたらハッピーな天職ならばそれはそれで幸せでしょう。でもCallingとしての天職は、必ずしもハッピーではありません。少なくとも聖書には、呼び出された人たちがそれを拒否する例がたくさん書かれています。
エレミヤに神の言葉が臨んだとき、まさに神からのCallingがあったとき、エレミヤは思いっきりひるむのです。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(同6)。エレミヤだけではありません。旧約聖書に登場する預言者の多くは、あるいは神によってリーダーに名指しされる者の多くは、神からの呼びかけにひるむのです。ヨナ書の主人公ヨナは、神の前から逃げ出します。モーセに至っては、あまりにも拒み続けるので神が怒り出します。天職と出会いさえすれば朝起きた瞬間から「今日も大好きな仕事、めいっぱいガンバルゾー!」といった感じとはほど遠い。しかし彼らは結局その仕事に召され、今いるところから出て行くことになるのです。
「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マルコ1:17−18)。ここに「すぐ」と書かれていることはいつも驚かされます。彼らはひるまなかったのでしょうか。あるいは故郷も職業も父親も捨て去ることをむしろ喜ばしいことと思える何か差し迫った事情でもあったのでしょうか。マルコは何も詳しく書きません。でも読み進めてゆくとあることに気づきます。彼らはイエスの晩年に寄り添うことで、召されたときにはわからなかった苦悩を結局味わうことになったという事実です。ひょっとしたらイエスと共にいる時間、その間中彼らは試され続けたのかも知れません。その結果例えばシモンは大祭司の庭でイエスのことを知らないと叫ぶ。「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。」(マルコ14:71−72)。ここにも「すぐ」がありますね。ペトロにとってもしイエスに召し出された時にひるまなかったとしても、こここそがひるみの極みだったのかもしれません。
しかし不思議なのはそのあとです。その後ペトロがどうなったかわたしたちは良く知っています。嘆き悲しみ、しかしそこから立ち上がり、イエスがキリストであると告げる者になっていった。それは既に告げられていた通り「人間をとる漁師」(同1:17)となることでした。そしてイエスと同じように殺されていきます。
わたしたちにも神さまの呼びかける声が注がれています。そしてわたしたちもまた、あの預言者たちと同じようにひるんでいる。それは致し方のないことです。とてもとても「すぐに」網を捨てるなんて出来そうにない。いやむしろますます握りしめた手に力を込めてしまうだろう。
でも神に捕らえられた者は、たとえ本人はひるんでいても、さらに強く手を握りしめたとしても、神さまはいっこうに構わない。その身を用いられて神のご計画を現すことになるのです。わたしたち一人ひとりは皆、神さまのご計画をこの地上に現すために、神さまから呼ばれた者なのかもしれません。
そんなこと言われたら、とてつもない悲壮感に見舞われそうです。でも、たった一人で悲壮感に見舞われる必要はないこともまた聖書にたくさんの事例として述べられていることにも気づくのです。モーセにはアロンやミリアムがいました。パウロのためにはアナニアが備えられていました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」(使徒9:17)。誰もいないように見えるエレミヤには神ご自身が最期まで共にいてくださいました。わたしたちもたったひとりぼっちで捨て置かれることはないのです。
見えない神が私を呼ぶ声が満ちる世界には、わたしのために備えられた誰かも必ずそこに神さまが置いてくださる。それが神さまのご計画なのです。そのご計画に信頼して、神さまの召しを受け止めたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたがわたしを必要だと仰るなら、私には心配事しかありませんが、躊躇いつつもあなたに全てを委ねます。どうぞあなたが用いてください。あなたがすべてを用意してくださった上でわたしの決意を待っておられることを、畏れをもって受け入れることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


