四谷新生教会

  • 牧師あいさつ
  • 集会の案内
    • 礼拝案内
  • こどもの教会
    • CS年間スケジュール
    • CSからのお知らせ
  • 今月の説教
  • 教会について
    • 新生会一覧
    • 教会員ブログ
  • アクセス
  • 幼稚園へ
  • Home
  • 今月の説教
  • 「人は力によって勝つのではない」滝澤 貢牧師
2025
21Dec

「人は力によって勝つのではない」滝澤 貢牧師

  • 今月の説教

https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2025/12/20251221.mp3サムエル上2:1−10/ローマ1:1−7/ルカ1:39−56/詩編113:1−9

 「人は力によって勝つのではない。/主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。/主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」(サムエル上2:9b−10)

 サムエルの母ハンナは子どもがいないことで苦しむ人でした。その苦しみが口をついて際限ない嘆きの祈りを神殿で神に捧げる人でした。祭司であるエリはそのハンナの様子を見て「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」(1:14)と思わず声を挙げるほどだったのです。
 それほどまでの苦悩を味わった彼女に奇跡が起こる。ようやくのことで授かった子どもサムエルを彼女は乳離れするまで愛情込めて育て、その後神殿で神に捧げます。サムエルはシロの神殿で祭司エリに仕える者となります。
 今日お読みいただいた2章1節以下は子どもサムエルを神殿に捧げる際に祈られたハンナの祈りだとされています。しかしよく読むと、これは単なる感謝の祈りだとか奉献の祈りではないことに驚かされます。
 今日読んでいただいたルカ福音書には二人の女性の賛歌が記されています。一人は祭司ザカリアの妻エリサベトの賛歌です。マリアが親類であるエリサベトを訪ねた時に、お腹の中の胎児が踊ったので、喜びに満たされて歌った言葉です。しかし彼女もまた長いこと子どもが授からない女性でした。そのこと故にひどく苦しんだ人だったのです。その彼女に奇跡が起こります。子どもを身ごもった時、彼女は「五か月の間身を隠していた」(ルカ1:24)とわざわざ書かれていることに注目したいのです。喜びがおとずれ長い間の苦難が終わった。だけどそのことがすぐにはグッドニュースに出来なかった。それこそが苦難の重さを表しているのだと思うからです。身を隠してのち彼女はこう歌います。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」(同25)。
 「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。」(同41−42a)と状況が説明されてエリサベトの喜びの歌が歌われます。その歌と対をなすのが「マリアの賛歌」でした。46節以下に書き留められているこの歌はサムエルの母ハンナの祈りと同じ響きを持っています。単なる感謝の祈りだとか賛美の歌ではないのです。
 エリサベトが5ヶ月の間身を隠していたということに注目したいと述べました。それはつまり、エリサベトは子どもができてもできなくても辛い境遇を生きてきたということの表れだったのではないかと思うからです。当時女性は子どもを生むことが神様に祝福されていることの証しだったのです。エリサベトはこれまでずいぶんと肩身の狭い思いをしてきたことでしょう。21世紀の現代でも、子どもが生まれるということは人間の能力とは全く別であることに驚かされます。しかし2千年前はそれが女性の能力に帰せられていたわけです。だからただその理由だけでエリサベトは蔑まれてきた。力を奪われてきた。そして年老いてその恥を雪がれる時に至ってなお、身を隠さなければならない境遇、徹底した辱めを舐め尽くさせられている。その事実に驚愕します。彼女の力を徹底的に奪ったものは一体なんだったのか。
 しかしエリサベトは、そしてハンナは、さらにマリアは、そうやって力ある者たちに翻弄され尊厳を奪われ命まで奪われそうになっても、そうやって自分たちを閉じ込め命を剥奪する者たちの持つ『力』を相対化した。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカ1:51−53)。というマリアのこの言葉は、彼女たちの思いの全てが込められている言葉ではないでしょうか。
 わたしたちは力を恐れます。だから逆にその力を得ようと必死にもがく。「日本を取り巻く安全保障環境は戦後最も厳しく複雑な状況にある」と政府が発する言葉をそのまま鵜呑みにして、「だからもっと力を」と際限なく軍事費を積み上げようとする。だけど「戦後最も厳しく複雑な状況」をつくったのは誰ですか。そうならないようにどうして憲法前文が告げる「不断の努力」をしなかったのか。
 しかしクリスマスの出来事はわたしたちの目に明らかな事実を突きつけます。「主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。」(サム上2:9)。人間の持つ単なる相対的でしかない力を欲する愚かな思いを打ち壊され、徹底的に無力なままで暴力によって十字架で殺されていった御子イエスのそのありさまを象徴する、飼い葉桶の全く無力な赤ん坊こそが、世界を救うのだという事実です。わたしたちは、神のその事実と臨在の前に膝をかがめたいと思うのです。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。救い主が全く無力な、弱く小さな赤ん坊としてわたしたちの真ん中に与えられた、その事実に目を開く者とならせてください。わたしたちはただでさえ、力を欲し、煌びやかな幻想の世界を永続させることを目当てにしてしまいます。しかしあなたの真実はそれとは真逆でした。そのことを覚えることができますように。飼い葉桶にねむる復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.247 心地よい場所

四谷新生幼稚園が紹介されました
ページ上部へ戻る

四谷新生教会

Yotsuya Shinsei Church

Copyright ©  四谷新生教会 All Rights Reserved.
当ウェブサイトでは Cookie を使用しています。引き続き閲覧する場合、Cookie の使用を承諾したものとみなされます。