四谷新生教会

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2025
07Dec

「向きを変える」滝澤 貢牧師

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エレミヤ36:1−10/Ⅱテモテ3:14−4:8/マルコ7:1−13/詩編19:8−11

 「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。」(エレミヤ36:5b)

 預言者というと少し恐ろしい顔つきとか、怒りの顔つきを思い浮かべます。しかしエレミヤのイメージは「嘆きの人」です。
 エレミヤが活動した時代は第一次バビロン捕囚、第二次バビロン捕囚、つまり国が滅ぶ時代でした。その事情をもう少し詳しく見てみます。
 イスラエルの選民意識、神によって選ばれた民であるという強烈な自意識は、そのヤハウェの民の国が滅ぶことを決して認めませんでした。宗教的な堕落が国の危機をもたらしたとして、ヨシア王は国を挙げて急激な宗教改革を実践します。その途中、迫り来るエジプト軍を迎え撃つ戦いで王は戦死してしまい改革は途中で頓挫します。その結果国はエジプトの属国となったのです。ところがエジプトは、新興軍事大国バビロニアに戦いを挑み、カルケミシュの戦いで敗れ、イスラエルを取り囲む国際情勢は大きく塗り替えられてゆきます。巨大軍事大国バビロンによってヨヤキン王がイスラエルで即位させられますが、あくまでもバビロンの傀儡王権であり三年に亘ってバビロンの支配下に置かれます。ところがこのヨヤキンがイスラエル国粋主義者の誘いに乗って、かつて敵対国であったはずのエジプトと組んでバビロニアに対抗する。それがもとでイスラエルはバビロンに滅ぼされ、主だった人たちはバビロンに捕囚となって連れて行かれることになったのです。
 エレミヤはその時代に働いた預言者でした。王国末期の混乱、イスラエルを取り巻く世界情勢の混乱の中で、神の告げる言葉を彼は語るわけですが、なんとそれは例えば「捕囚は恵みである」というものだったのです。バビロンによって国が滅ぶのは、ヤハウェへの背信行為がもたらした神の怒りなのだから、その神の怒りに従って懲らしめを受け耐え忍ぶべきだ。そうして初めてヤハウェの赦しと救いがもたらされる。だからこの苦難こそ恵みなのだ、と彼は言うのです。しかし、選民思想に凝り固まる国粋主義者にとって、こういう思想こそ売国思想そのものに他ならず、エレミヤは常に同胞から迫害され続けるのです。
 国も世界も混乱のまっただ中にあって、真実を求めたエレミヤは真実ではなく大きな絶望を得てしまいます。預言者の心の内をエレミヤ書は「告白録」としてあちこちに収録しています。これがエレミヤの嘆きであって、エレミヤのイメージを決定づけているのでしょう。
 神の声に真実に従うとは、そういう苦悩や嘆きを伴うことなのだと思います。簡単で、嬉しくて、楽しいことばかりではないのです。なぜなら、わたしたちが暮らす世の中が、神の真実から遠いからです。かつてわたしたちの国は、神ならぬ神の声に従って80年前の明日12月8日にアメリカとイギリスに宣戦布告しました。もう11年もの間中国との戦争で泥沼に陥っていた挙げ句の暴挙でした。「東アジアの安定を願う日本に対し、中国は執拗に争いを起こして平和を乱し、米英はその中国を支援して日本を屈服させようとしている。だから日本は自衛のために、東アジアの独立と永遠の平和を守るために戦うのだ。」そんな論法が人々を誤った道へ導いたのでした。
 そして敗戦。日本は戦争によってあらゆるモノを失うわけですが、しかしいわゆる平和憲法を得ました。今だにそれを「押しつけ憲法だ」と言い、「自主憲法を制定するぞ」と勇ましいかけ声を響かせる政治家が多いのですが、憲法に非戦条項を置いたのは、世界が2度に及ぶ大戦争での疲弊と混乱の経験の中で、このままでは世界が滅ぶことを多くの国々が意識していたことの表れだったとわたしは思います。だから、戦争に突き進んできたことを改めて、国の方向を全く逆の向きに変えるという意思を表明し、国民に受け入れられたのでした。この憲法が発布された時、多くの国民は心から安堵したのです。
 しかしやがて戦争責任を巡って「いつまで謝り続けなければならないのか」と、やはり威勢の良いかけ声が挙がり、今また「日本を取り巻く安全保障環境は戦後最も厳しく複雑な状況にある」という言説がまことしやかに流布される時代です。そりゃどれだけ謝ってみても、自分の向かう方向を全く変えなければだれからも信頼されないのは当たり前です。「謝る」とは自分の進むべき方向を改めるという行為が伴って初めて信頼されるのです。
 預言者の役割はすなわち神の道に逸れていないかどうかを見張る役でした。間違った方向に進んでしまったら、神に立ち帰って向きを変える。それをジャッジするのが預言者の務めなのです。教会はこの世に対して見張りの役を委ねられたと、少なくとも自負をしている。であれば当然ながら、国の野望と等しく一致するとは限りません。そういう中で神に依って立とうとすれば、苦悩や嘆きが伴うのはこれまた当たり前で、それがイヤならば残念ながら神によって立つことを止める以外にありません。あの亡国の時代のイスラエルにも偽りの預言を語る者たちは大勢いました。平安を安易に語り、人々に受け入れられていたのです。彼らこそ持てはやされ、あちこちで歓迎されます。一方エレミヤは迫害され、命を狙われ、最後には望まないままにエジプトに拉致され、そこで命を落とします。正しく神によって立とうとするならば、それを貫こうとするならば、そういうことも十分に起こり得る。これが過去のエレミヤの話ではなく、ひょっとしたら明日のわたしたちの国の物語かも知れません。
 自分がどこに立ち、誰を待つのかが厳しく問われる冬の日々にわたしたちは立っています。どちらに向いて立とうとするのか、アドヴェントのこの日々にもう一度自分に向き合いたいと思います。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたの方に向きを変えることを厭わない者としてください。あなたが与えてくださる平和を、平安を、信じて求める者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

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