イザヤ51:4−11/Ⅰテサロニケ5:1−11/マルコ13:21−37/詩編82:1−8
「天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。」(イザヤ51:6)
最近のAIはなかなかスゴいです。普通のWeb検索とは違って、こちら側の曖昧な記憶でもその意味を汲み取り、可能性のある事柄をいろいろと提示してくれます。小学生の頃に記憶に残っている物語のうろ覚えの要約を書き記すと、「それはおそらく○○の可能性があります」と幾つかを提示してくれるのです。
記憶がかなりあやふやですが、おそらく小学生高学年で目にしたと思われる3つのお話がありました。1つは中味もタイトルも良く憶えていました。安岡章太郎の書いた「サアカスの馬」です。ただ、安岡章太郎がわからなかったのでChatGPTのお世話になりました。もう一つが今日の説教のタイトルになった「一切れのパン」です。これも話の中味は良く憶えていましたが、どういう背景を持った物語なのか作者がだれなのか知りたくてChatGPTのお世話になりました。最後の3作目がいちばん苦労しました。うろ覚えの内容は、確か秋刀魚だったと思うのですが、どうしても海に帰りたくていろんな動物に助けを求め、最後は目玉までほじくり返されて砂に埋まってしまうというめちゃくちゃ悲しいお話でした。まるごとChatGPTに降ってみたら、いくつかの候補を教えてくれて、その中に小熊秀雄の書いた「焼かれた魚」という短辺が見つかりました。こうやってChatGPTの助けによって、モヤモヤしていたものがハッキリしたのです。オマケにそのうちの2つ、「サアカスの馬」と「一切れのパン」は光村ライブラリー中学校編の一巻目に両方とも掲載されていることまで知りました。
そうやって手にしたのが「一切れのパン」です。
話は第二次大戦末期。ルーマニア人である「わたし」はハンガリーで働いていたが、ルーマニアがドイツと絶縁しソ連と手を結んだために敵国人として逮捕されます。翌日夕方食事も与えられず行く先も知らされないまま貨車に押し込まれて駅を出発します。途中貨車の床板を剥ぎ取り脱走しようとすると、年老いたユダヤ人のラビから小さいハンカチの包みを渡されます。「この中には、パンが一切れ入っています。すぐ食べずにできるだけ長く保存しなさい。パンを一切れ持っていると思うと、ずっと我慢強くなるものです。」。そこから長い逃亡が始まります。極度に空腹を憶え、何度もそのパンを食べてしまおうと思いながらも思い返し、やっとの事で家にたどり着きます。そして思い出してパンを取り出したところ、ハンカチからポロリと床に落ちたのは一片の木切れでした。
今日お読みいただいたイザヤ書はいわゆる第2イザヤと呼ばれる部分です。第2イザヤは、バビロン捕囚から解放される喜びを告げるのですが、それは一筋縄ではいきませんでした。捕囚があまりにも長く続いたために、故郷に帰る方が良いのかバビロンにとどまる方が良いのか、人々の間に迷いが生じていたのです。例えば出エジプトという大きな出来事でさえも、人々はことあるごとにモーセに、つまり神に不平を漏らしました。あまりにも長くエジプトに留め置かれた彼らは、そこからの解放を等しくみんなで夢見ることが出来なかった、人によってはエジプトを離れるわけにはいかない、離れられない人も実際の脱出民の中にいたのではないかと思います。そういう人たちはどうしても難題にぶつかると「エジプトにいた方がマシだ」と思うし口にする。その繰り返しだったと思います。バビロンからの解放の時もまた同じことが起こったのでしょう。しかも今回は異邦人であるペルシャ王キュロスに因る。第2イザヤは彼をメシアと呼ぶほどでした。その布告をみんなが喜ぶはずだったのかもしれない。しかし折角の解放を、みんなが等しく喜ぶ状況にはならなかったのです。それほど捕囚は長すぎて、それ故にやはり過酷だったのです。
やがて第2イザヤはキュロスの現実をつぶさに見て、彼が油注がれたメシアではないことを悟ります。そしてキュロスを讃える代わりに、いわゆる「苦難のしもべ」の歌を綴ります。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:4−5)。苦難にまみえ、同胞からさえ疎んじられるその「彼」こそがわれらの救い主メシアなのだと第2イザヤは告げるのです。
それはまさしく薄汚れた板切れではないかとわたしには思えます。ハンカチを退ければ、そこにあるのは一切れのパンではなく板切れ。人間の絶望の極みを支えるのはいったい何でしょう。モーセは出エジプトの英雄と見做されますが、実際は苦難を極めた人でした。常に同胞から心ない言葉を浴びせられ、そういう言葉を浴びせる人の方が人々から人気もあり関心も買っていたのです。まさに苦難のしもべでした。第2イザヤの時代にも、捕囚からの解放という最大の喜び、長い間の悲願の出来事が、しかし人々から受け入れられない。神の国を述べ伝えたイエスはそれ故に人々から疎まれ十字架で殺される。絶望はさらなる絶望を生む。それがわたしたち人間の現実なのかも知れません。
今日一つ目のろうそくに灯りが灯りました。昼閒見るこの灯りなど、ほとんどだれの目にもとまらないでしょう。しかし確かに灯っている。絶望がさらなる絶望を生むわたしたち人間の世に、神の救いとはそのようにおとずれるものなのかも知れません。華々しい電飾や賑やかな音楽で多くの人の耳目を集めるようなものではなく、まさにほの暗い灯心のようにわたしたちには思えてしまう。それが神の救いのおとずれの確かなしるしなのかもしれません。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。救い主のお生まれを灯りを灯して待つ期節に入りました。小さな炎こそが、あなたの救いを証ししていることを信じる者とならせてください。ますます闇の深まる世にあって、あなたの約束の光を真っ直ぐに見つめつつ歩む者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


