創世記4:1−10/Ⅰヨハネ3:9−18/マルコ7:14−23/詩編51:1−11
「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:7)
「キリスト教はすぐ「罪」だ「罪人」だ言うからヤダ!」と言われたことがあります。確かにどれ程伝道熱心かも知れないけど、いきなり「あなたは罪人です!」とか言われたら、わたしだってチョット引いてしまうと思います。「敵を愛しなさい」という割にはキリスト教国が世界の歴史で行ってきた敵への攻撃を見ると、そんなふうに言うこと自体が胡散臭くも思えます。
そして今日の礼拝の主題が「堕落」です。聖徒の日/永眠者記念礼拝は毎年11月の第一日曜日と決まっています。そしてこの聖日はほぼ必ず「降誕前第8主日」です。で、第8主日の主題は必ず「堕落」です。と言うことは、今日この記念礼拝のために礼拝に来られた方は、必ず「堕落」というテーマで礼拝を捧げることになります。例えばこの記念礼拝だけ年に一回だけ教会に来られる方もいらっしゃいます。その方は、毎年毎年「堕落」「堕落」と言われ続けることになります。申し訳ありませんねぇ。そういう暦なので勘弁してください。「堕落」という主題じゃない日曜日も年に51回ありますから、ぜひ他の主題の日にもおいでください。
それにしても、「罪」「罪人」「堕落」と、わざわざ並べられて気持ちよくなる人は余りいないと思います。キリスト教はなんとかの一つ覚えのように「罪」「罪人」をよく使います。厭になりますよね、こういうことばかり言われたら。
リンゴの毒を食べてしまった人間が産んだ二人の兄弟の物語が今日読まれた聖書です。そしてさっそくその毒が兄の体を蝕んでいます。
世の中には不条理が満ちています。自分が正統に評価されないことも当然ある。どうして神が「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(創世記4:4-5)のか、わたしたちにその理由はわからないのです。その不条理をカインは許せなかった。「カインは激しく怒って顔を伏せた。」(同)。それに対して神は問います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」(同6)。それはつまり「自分をしっかり保てよ」という呼びかけでしょう。「序列ではない、あなたはその存在そのままで貴いのだ」と。
植物学者の稲垣栄洋(いながき ひでひろ)さんはその著書「はずれ者が進化をつくる」の中でこんなことを述べています。「「多様性が大事」と思っていても、実は人間の脳は「たくさんある状態」が苦手です。そして、「個性が大事」と思っていても、「バラバラにあるもの」が苦手です。人間は、目の前にあるものを、「できるだけ揃えたい」と思ってしまうのです。そのため、人間の世界は均一化する方向に向かいがちなのです。並べたり、順番を付けたりして、整理をすると、人間の脳は「たくさん」を理解しやすくなります。人間の脳は、一列に並べて順番を付けるのが大好きなのです。」
目の前で不条理が起こった時、カインは自分の序列がアベルより下にあると理解し、それが許せなかったのでしょう。ありのままを受け入れるより、兄として弟より上位に位置することが当たり前で、自分のことを「上位にいる自分」という理解のしかた以外を受け入れられなかったということではないか。
人間は「つくられたすべてが、はなはだ良いのだ」という神の呼びかけに応えることは出来ませんでした。自分の正しさ=だけ=で生きて行くことを選んだのです。怒りに震えているその時はそれが出来ると微塵も疑わなかった。ところがその通り自分の正しさだけで生きていこうとする時、激しい恐怖が彼を襲います。そのことは11節以下に書かれています。
わたしたちがこの世で生きて行くということは、この繰り返しなのだとつくづく思います。神の声に応えることが出来ない。自分の正しさが常に優る。しかし、あらゆるモノを序列化して相対化する中でしか生きて行けない以上、自分もまたその「正しさ」が相対化されるはずなのに、それは受け入れられない。その堂々巡りの中で、わたしたちは喘いでいるのかも知れません。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(同7)。わたしたちはたった一人で「それを支配」出来るのでしょうか?
ここに飾られている一人ひとりは、それぞれが信仰の道の半ばで神に召された人たちです。いつだってそれは道半ばでしょう。天寿を全うしたと思える人生であったとしても、それは道半ばなのです。しかし、行き先を知らずに、その道の半ばで倒れたのではありません。行くべきところを知って、その道を歩き抜いた果てに、道半ばで召されたのです。言い換えれば「あなたはそのままではなはだ良いのだ」という神の言葉に自分の人生を賭けて生き、その道の途上で召されたのでした。その事実こそ、大いなる奇跡です。人生に対する取り組みが変わったのです。神によって、救い主によって変えられたのです。
わたしたちは今日、その一人ひとりを思い起こし、わたしたちもまた自らを省みて、主に感謝を捧げたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。「あなたはそのままで、はなはだ良いのだ」という神さまの声を、そのまま受け入れる者とならせてください。一列に並べ序列をつけることでしか物事を理解出来ないわたしです。その正しさだけに固執する時、わたしを支配するのは恐れです。どうぞ神さま、わたしを救ってください。全ての者があなたによってつくられ、保たれ、「はなはだ良い」という真実に、目を開くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


