創世記2:4b−9,15−25/黙示録4:1−11/マルコ10:2−12/詩編19:1−7
「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」」(創世記2:18)
「憲政史上初」だそうで「女性首相」が誕生しました。指名選挙では1度目で過半数を超えて支持されたようで、何より衆議院議長が名前と票数を読み上げる際の総理ご本人のこの上ない安堵の表情が、ここに至るまでの複雑怪奇な道のりを全て表しているように私には見えました。
よくよく考えてみると、わたしたちにとってなんとなく「民主主義」のお手本であるように捕らえられがちなアメリカ合衆国ではそれこそ憲政史上まだ一度も女性が大統領になったことはないのですね。日本がアメリカの先を行っちゃったとついつい浮かれそうになりますが、なかなかどうして、諸外国のメディアの論調はキビシイものがありました。
ちょっとしか調べられていないのですが、米国でも中道的なロイター通信社は「日本の政治におけるガラスの天井がついに破られた」と前向きに捕らえています。保守系のFOXニュースは「日本に新たな鉄の女が誕生した」と好意的です。逆にリベラル系のワシントン・ポストは「女性であることは歴史的。しかし、その政策はタカ派的。保守色が濃い」と懐疑的な見方を示しています。CNNもリベラル系ですが「女性首相誕生は象徴的。ただし、主張は伝統保守の延長線上」とかなり辛口です。リベラル系のニュース専門チャンネルMSNBCではコメンティターが「A conservative man in a woman’s mask」とかなり辛口で皮肉たっぷりの表現をしました。この表現は瞬く間にSNSで広まったようです。ニューズウィーク日本版はこのコメンティターの言葉を「『女性の着ぐるみを着たおやじ』という揶揄です」と書いていました。
さらに組閣が完了した時点で「これまでで最も多くなる」などと目されていた女性大臣の起用はたった二人に留まってしまいました。この数字は「女性首相誕生」と「変わらぬ組閣」の対比としてアメリカでは繰り返し伝えられているようです。尤も、増やそうにも自民党の女性議員は衆参どちらも19人ずつの38人しかいません。当初「6人起用か」などと報じられもしましたが、ホンネでは選びようがなかったということでしょうか。
私も自分をかなりの皮肉屋だと自負しますが、いわゆる女性政治家の姿を見ていて、中には本当に「女性のマスクを被った男性」のような発言をなさる方がいて、何だかなぁと思うことが度々ありました。だからでしょうか、MSNBCのコメンティターの表現に思わず笑ってしまいました。海外メディアはわたしたち以上に良く現実を見ていて、しがらみがない分歯に衣着せぬ表現をしているのかも知れません。アメリカではガラスの天井がまだ破られていないというひょっとして忸怩たる思いも、これらの表現のウラに見てとるべきなのかも知れません。「そうは言うけど、お宅はまだ女性大統領はいないでしょう」と。ところがそう言った途端、要職に例えば50%女性が登用されているならいざ知らず、という現実を逆に突きつけられてしまいそうです。
つまり、史上初だとしても「女性首相誕生」と表現し、そういう冠を付けなければならないという現実が、根本的に問題なのかも知れません。ガラスの天井を破ったことが一番大きなニュースだという現実こそが問題なのです。
その「問題」を固定させてきた一つの原因が創世記、そしてそれを引用したパウロ先生にあることは疑いようがありません。「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」(創世記2:20−22)。聖書が「信仰と生活との誤りなき規範」(日本基督教団信仰告白)なのであれば、女は男からつくられたというその順番こそが秩序であり、女と男以外のセクシュアリティは存在しないことが神の御心とされてしまうわけです。「人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」」(同23)。
ところが、「彼に合う助ける者」(新共同訳)「彼にふさわしい助け手」(聖書協会共同訳)「人のために、ふさわしい助け手」(聖書新改訳2017)「彼のために、ふさわしい助け手」(口語訳1955)と、軒並み「助け手」と書かれ訳されている事柄は、岩波版の聖書では「彼と向き合うような助け手」とされ、その註には「字義通りには「彼の前にある存在として(の)」と書かれているのです。「助ける者」とは「助手」だとか「アシスタント」とかのことではなく「彼の前にいる存在」のことです。それは「お互いが相手の前にいる存在」であることを改めて求めてきます。それは向かい合う存在に留まらず、議論し合い、異論を唱え、場合によっては敵対的になるかも知れないが、少なくとも主従関係などではないことに気づかされ、ハッとさせられるのです。
「助け手たる(つまり二次的存在)女性が初めて総理大臣になった」ということではなく、「○○さんが総理大臣になった」で構わないほどにわたしたちの社会が成熟するのはいつでしょうか。この教会が先ず、成熟に向かって一歩一歩進んで行きたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたの深いご計画によりわたしたちにはいのちが与えられました。わたしたちはあなたの深いご計画によって、人と人との間で生きるものとされました。その意味を憶え、考える者とならせてください。私の思いではなくあなたの目に正しい選択が出来るように導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


