「数合わせ」という言葉が飛び交っている。もちろんこのところの話ではもっぱら永田町界隈のことなのだが、そもそも「民主政治の原則である多数決」などと総務省がホーム−ページに堂々と記載しているのだから、51%を獲得するのに必死にならない方がおかしい。それどころか、いわゆる「政治の安定」を言うのであれば「安定多数」(衆議院で言えば過半数233、安定多数244)まで取りたいわけだろう。そこに達しない限り「不安定」な政治になるのだ。
そんな当たり前のことなのに、テレビカメラがまわっているところでは与野党問わず党首だの幹事長だのが「数合わせありきではダメだ」だの「先ず政策」だの、良く臆面もなく蕩々とのべるものだ。「数合わせじゃない」と言いつつ必死で「数」を獲得していることが見え見えで恥ずかしくないのかなぁなどと、至って小心者の私は考え込んでしまうのだった。ま、だからわたしに政治は出来ないし語れもしないのだけど。
ただ、多数決(から来る過半数)という考え方は、わたしたちの身近なところにも溢れている。過去少なくとも20数年の間、日本基督教団は今に至るまで多数決(から来る過半数)で様々なことがごり押しされている。55対45辺りなので教団総会の場では安定多数なのだろう。というか、その場で安定多数を図るために選挙の場面では「全数連記」がもてはやされるのだ。「全数連記」とは、例えば定数3であれば投票用紙に3名の名前を書くこと。これが16人だろうと20人だろうと全員の名前を書く決まり。そして「安定多数」が欲しい人たちはこの「全数連記」を必死で守ろうとする涙ぐましい努力を重ねているのだ。
だが、実は安定からは何ものも生み出されない。問題が起こる時、その問題が人を成長させる。教育の場では「安全」という大きな天蓋の中で仕掛け(しょうがいぶつ)をあえてつくったりもする。だからあそびの中で育つのだよ、バッジを付けた先生方!
2025
19Oct
四谷快談 No.238 不安定が生み出すこと
