コヘレト3:1−13/Ⅱテサロニケ3:6−13/マタイ20:1−16/詩編90:13−17
「わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」(Ⅱテサロニケ3:12)
わたしが中学生の時、高校はいわゆる推薦で早々決まっていましたが、そしてもちろんそこに行くことは最初から決定していましたが、それでも友人たちが公立高校受験のために頑張っていたので、自分も以前から行くつもりでいた公立高校を受験すると思って勉強を続けていました。親から「怠けるな」と言われてもいたのです。ところが担任の先生から「推薦で受かった学校に行くのなら、公立は受験するな」と言われました。勉強してやっているのに、何で文句を言うかなぁ、と。よくよく考えたら、仮に公立も受かって尚且つ公立に入学しないのであれば、その一人分の合格を他の人が享受すべきですから担任の助言も尤もなことですが、小生意気な中学生の耳にはそんな助言は届きませんでした。それなのに、担任から「受けるな」つまり「勉強しなくても良い」と言われたことをこれ幸いと、あとは自堕落な生活を続けました。人間、早々と先が定まったら、いつまでも努力なんてしないんだよなぁ、ということです。一旦ラクをしてしまうと戻れない。「自堕落」という文字は良く出来ています。少年である私の体験談からしても文字通り自分で堕落したのです。
イエスが十字架に架かって殺されて、残された弟子たちは徐々にその衝撃を乗り越えて、生前のイエスの教えを思い起こしながらあちこちにイエスの出来事を伝え歩くようになり、そうしてやがてイエスを救い主と信じる群れがあちこちに出来てきます。ユダヤ教から見ると背教の輩だったために、イスラエル本国でより、イスラエルの外に出た方が伝道しやすかったのでしょう。あちこちの、いわゆる異邦人にイエスの出来事は受け入れられ、信じる群れがたくさん出来たのです。
まだ聖書がいわゆる旧約しかなくて、しかも巻物でとても高くて普通の人は持てなかった時代に、イエスの出来事は人の口を通して語られる言葉として広まっていきました。たとえ同じ話であっても、聞く人によって「大事」と思う部分がちがうのは当たり前です。同じ話を聞いても受け取る人によって「大事」のポイントが異なり、やがてグループができはじめます。文字ではなく言葉で伝わるということが抱える現実であり限界ですよね。
そういうグループの中には、イエスが再臨なさってすぐにでも再びおいでになるのだということを、それも来週辺りにはとか来月辺りにはというほど差し迫った感覚で信じている者もありました。来週再臨のイエスがやって来て、終末の世になるとなったら、勤勉に働くなんてことはおそらくしないでしょう。何かのために頑張って備えるなんてこともしないでしょう。「聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。」(同11)というのは、そういう人たちのことを指しているのです。推薦で高校が決まったら中学卒業までは遊び回る。まぁそういう人ばかりではありませんけれども、でももう終末の世になるのなら働く必要もないし何かのために努力する必要も感じなくなるかも知れませんよね。
そういう人たちに向かってパウロは「「働きたくない者は、食べてはならない」と命じてい」(同10)たのです。ところがこれが例えばクリスチャンは勤勉でなければならないという意味に勘違いされたり、あるいは働けない者を差別することの正当な理由に使われたりしてしまいました。パウロさんはびっくりしているかも知れませんね。
日本国憲法で国民の義務と定められているのは「教育の義務(26条2項)」「勤労の義務(27条1項)」「納税の義務(30条)」ですよね。「勤労」が国民の義務とされていることはちょっとびっくりしてしまいます。じゃぁ、働かない者、働けない者は義務を果たしていないのではないか。
ところが憲法条文を正確に読むとこう書かれているのです。「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」(27条)。労働は先ず第一に、国民の「権利」なのですね。だから、働けない者を国が放置したり差別することは許されないのです。事情があって働けない、収入がなくて人間らしい暮らしが出来ないのであれば、国は責任を持ってその人の暮らしを守らねばならないのです。
イエスが「天の国」のたとえとして朝早くから働く労働者と、夕方になってようやく職にありついた労働者の話を持ち出して、両者が同じ賃金だったというオチをつけたのは、今考えると日本国憲法の精神そのものだったのです。それこそが「天の国」の有様なのですよね。つまり、神さまの御心なのです。わたしたちはそうは考えられない。どうしたって損得でしか考えない。「それで、受け取ると、主人に不平を言った。」(マタイ20:11)。
「信仰と労働」という説教題にひょっとしたら違和感を憶えるかも知れません。でも、信仰も労働も、人間の暮らしの全体に関わることです。信仰があれば労働は要らないとはならないのです。むしろ人の暮らしのどの部分でもそこを切ったら信仰という血が流れている。切り離せない関係にある。無理矢理「奉仕」などと美化して考える必要はないのです。
わたしたちは来週イエスが再臨するかどうか、それが来月になるのかどうか、そんなことはわかりません。いつその日が来るかなんて、誰にもわからないのです。それでいいんです。いつその日が来ても良いように、わたしたちは喜びをもって暮らしていくのです。働くことが権利である社会を生きていくのです。人間が共に生きることを、手を取り合って進むことを、最大の誇りとして、世知辛いこの世の中でこそ「天の国」を待ち望みながら、命の限り生きていくのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。生活と切り離された信仰はあり得ないことを改めて知らされます。わたしたちの暮らしのあらゆる部分で私の「信仰」が試されているのです。暮らしのまるごとをもって神さまを信じる者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。