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2025
14Sep

「死と命」滝澤 貢牧師

  • 今月の説教

列王上3:4−15/1コリント15:35−52/マタイ13:44−52/詩編104:24−35
 「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(1コリント15:49)
 私の父が亡くなったのが2月でしたので、半年が過ぎました。肉親を失った悲しみはじわじわやって来ると、私に慰めを語ってくださる方もいましたが、不思議なことに私には、父を失ったことに対する悲しみは少なくとも今日まで襲ってきません。どうしてなのかいろいろと考えてみたのですが、それは父の晩年と関係があるのではないかと思ったのです。
 というのも、父は2020年11月に脳内出血で倒れ、手術を受けましたが、左側にちょっと麻痺が残った以外は回復しました。それでも自分の家で同じ程度年老いた私の母と二人で暮らすには厳しいということで、12月28日に病院を退院すると同時に介護老人保健施設に入所し、そのまま4年を経て最期の時を迎えたのでした。その間にいわゆるコロナ・パンデミックが襲ってきて、特に老人施設などでは神経質なほど高度の対策がとられたために、たまに帰省したとしてもほとんど面会は出来ませんでした。臨終の時ももちろんわたしは側にいたわけではなく、急いで駆けつけた時にはとっくに冷たい体になっていたわけです。
 そういう訳ですので、父の最後の状態もわかりませんし、苦しい闘病などもしていないし、なんだかまだあの老健施設にいるような気がするくらいです。それゆえでしょうか、悲しみに襲われるということがないのです。
 それと似た感覚を、父が亡くなる前にも感じていました。それは恩師である関田寛雄先生が亡くなった時でした。関田先生は2022年12月14日に亡くなりました。その知らせはSNSを通じてその日の夕方には知ることが出来ました。その時は、葬儀は先ず家族葬で行い、のちにお別れの会が開かれるということでした。当然ながら関田先生の死に目にも立ち合いませんでしたし、やはりパンデミックを警戒する中で大勢の参列が想像出来るお別れの会も、出席はいたしませんでした。だからかも知れないのですが、私にとって関田先生は、今も大きな重いリュックを背負ってどこかに出かけて聖書研究会をしているようにしか思えないのです。
 創世記5章にアダムの系図が書かれていますが、その系図の中にエノクという人が出て来ます。「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:21−24)。「神が取られたのでいなくなった」というのがどういう情景なのかはわかりません。ただ、父は老健施設で皆に見守られていたあのままで天に取られていったようにも見えるし、関田先生もリュックを背負って聖書研究会に出かけるそのままの姿で地上からいなくなったようにしか思えないのです。
 ひょっとしたら、「死ぬ」とはそういうことなのかもしれないとも思うようになりました。死ぬことによって私たちのこの体は滅びてしまいますが、体が滅びることが全ての終わりではないかも知れない、ということです。
 そんなことを考えさせられたのは、以前にも取り上げましたが手塚治虫の火の鳥、その「未来編」でした。主人公の山之辺マサトは火の鳥によって死なない体になり、地球が核戦争で滅んだあとたった一人、地球と生命の再生を見届ける役割を与えられます。そのセリフがこうです。「あと残された方法はただ一つ…自然の成り行きにまかせていつか人間の先祖が現れるまでじっと待つだけのこと、おお、まさか…まさかわたしに生物の進化をもう一度繰り返させろというのではないだろうな。それしか方法がないのか?生物が現れて何十億年もの間にゆっくりと進化し、おしまいに人間に進化するまでわたしに見守れというのか。それはあまりに…あまりにむごい…。」「何億年たとうと、わたしは待つぞ。」この時マサトは既にひとりぼっちになって1万年以上を経ていました。そのト書きにはこうあります。「マサトの肉体はもうとっくに風化して消え失せていた。しかもなおマサトは生きていたのだ!!」「そして少しずつ進化していく生命をただ見守るだけの「存在」になっていたのだ。マサトは確かに生きていた。空間と時間を調節した超生命体として…」。
 これを読んだ時に、死と命とは一つにつながっているのだと、まるで雷に打たれたようにそう思ったのでした。死が全ての終わりではなく、つながっている命の一つの通過点なんだ、その通過点は肉体に予め定められた終わりの時なのであって、命はその後も、むしろその後こそ続いているんだと思ったのでした。
 死者の復活ということをこの目で見たことも体験したこともないわたしは、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者」(1コリント15:35)の一人に過ぎません。未知なことには不安をかき立てられる。それが生きている者の弱点です。いのちを存えるために、未知なことは避けるべきだし、そのためには力を振るって未知を取り去らなければならない。知らないからこそ不安になる。その不安から身を守るために暴力を解き放ってしまう。だから暴力は力の象徴ではなく不安そのものです。その不安に駆られるわたしに対して、パウロはこう言います。「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(1コリント15:49)。
 復活なんてわからない。わからないけれども神さまが、その救いのご計画の中に「復活」を置いていてくださるなら、それは私たちを絶望させるためにではなく、救うために置かれているに違いない。死と命はつながっている。つながった先で「天に属するその人の似姿に」変えられていく。その言葉を信じるからこそ、今この時をたとえ困難であったとしても生き抜いてゆくのだと思います。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。いのちの終わりはいのちの始め。あなたが与えてくださったいのちは終わることなく天に属するその人の似姿に変えられてゆくという教えに耳を傾け、今を、与えられたいのちを喜びながら生きて行くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.233 自分を切開する

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