四谷新生教会

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2025
24Aug

「人生いろいろだけど」星山京子牧師

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※本日滝澤牧師が不在のため、礼拝の音声データはありません。

使徒2:7−11

 今日の箇所は、あらゆる地域の人びとが集まって、自分の故郷の言葉で話すことに真面目に信仰生活を送る「信心深いユダヤ人」たちが「驚き怪しんで」いたとあります。このひとたちは、自分の故郷の言葉で話している人びとが「皆、ガリラヤの人ではないか」と気づくのですが、なぜ「皆、ガリラヤの人」だとわかったのか。
 信心深いユダヤ人が「驚き怪しんだ」という表現を、ルカは奇跡行為をみた人びとの驚きの表現として多く使います。〈イエスの時〉から〈教会の時〉へ時間軸が移動していく流れから外れることなく、イエスと共に活動したあのガリラヤの地を思い起こし、〈イエスの時〉を忘れないように、〈教会の時〉へと流れていく時間軸の移動が、まずはガリラヤの人びとに担われていくことを強調しています。これがルカによるちょっとした仕掛けで、読者に誰によって教会が作られていくのかを聖霊と共に印象づけています。
 さて、「めいめいが生まれた故郷の言葉」を聞くことになります。パルティア人はイラン北部の辺りの民族。巨大国家だったのでギリシア語、パルティア語、ペルシア語等々たくさんの言葉が話されていました。メディア人はイランの南部あたりで地の果てと思われていた場所。エラム人は、旧約聖書にも登場し、ペルシャ湾岸北部の民族です。地域としてメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、これらはよく知られています。ポントスは、小アジアの黒海沿岸地方、現在のトルコ共和国領です。アジア、フリギア、パンフィリアは今のトルコ、エジプト。キレネはリビアの東部にある重要な港町です。ローマから来て滞在する人、ユダヤ人、ユダヤ教への改宗者、さらにクレタ、アラビアから来たひと。かなりの広範囲です。当時からすれば、ほぼ世界中の言葉が話されているといっても過言ではありません。ここに記された地域には、各地に散らされていったユダヤ人(ディアスポラ)が実際に住んでいたことが確認されています。ルカはディアスポラのユダヤ人を単純にここに登場させたわけではなく、その中に「異邦人」もユダヤ人もユダヤ教への改宗者もいたわけで、その人びとが並列に、同じレベルで記されているということは注目に値します。なぜなら、最初にキリスト教徒になった異邦人は使徒言行録10章に登場するローマの「イタリア隊」と呼ばれる部隊長のコルネリウスなのはよく知られています。しかし今日の箇所を丁寧に読み込めば、このコルネリウスに先立って、既に聖霊によって「異邦人」が呼ばれていたということになります。具体的にキリスト教徒になったのはコルネリウスが最初かもしれませんが、ルカは予め異邦人は既に共にいるのだと読者に予告していました。
 それにしても、自分たちの生まれ育ったところの言葉が、あちらこちらで話されているという場面を思いついたルカは、なかなか優れた表現者で、この表現方法は斬新です。ルカはあらゆる言語に満ちあふれているところで生まれ育ったのかもしれませんが、それを、教会誕生の物語にはめ込んでいく発想に驚かされます。それぞれの言語が持つ微妙な表現の違いやニュアンスを感じ取っていたのだろうと思います。
 今日の聖書箇所の選択は、台湾基督長老教会の国際日語教会について考えたからです。派遣されているうすきみどり派遣宣教師のお話を聞いたことが、聖書箇所を選んだきっかけです。PCTでは、たくさんの言語で礼拝が行われています。もともと台湾にいた原住民の方々は、それぞれの言語が全く違うそうです。PCTは、1教派で、中国語、台湾語、英語、客家語(はっかご/漢民族の言葉)、各原住民の部族語が16、日本語、手話も含めると、20言語以上だそうです。うすき宣教師が、今日の聖書箇所のことを持ち出し、やっとこの聖書箇所の意味がわかったと仰った。様々な言葉が飛び交い、話されることが日常的にあることを、わたしたちは実感としてあまり持っていません。もちろん、この国にもアイヌ語、韓国語、沖縄の言葉、新たに日本に移住する外国人の方の言葉、いろいろありますが、日常の中でいつも様々な言葉が当たり前にあるという経験をしていません。うすき宣教師のお話しによって、「聖霊」という前提で様々な言語が飛び交うという不思議な状況が真実味のある話しへと変化しました。
 18世紀~19世紀初頭に生きたスペインの画家にフランシスコ・デ・ゴヤがいます。彼が若い頃に通っていた画塾は「異端審問所」の役目を負っていました。絵を習う場所が、異端審問所だったのです。その名前はfamilia。異端審問所の名前が「家族」というのは「内々の通報者」、家族的にヒソヒソと告げ口するような場所で誰も責任を取らないというところからきています。当然、このfamiliaは人びとから嫌われていましたが、他方で人びとからは恨みを晴らす場所としても使われていました。表向き宗教による厳しい抑圧があればあるほど、人びとは解放を求めます。スペインは今でもヨーロッパの中でも飛び抜けてカトリック信仰、とりわけマリア信仰に篤い地方があります。復活祭ともなれば、とんでもなくきらびやかに金銀でギラギラに飾り立てられたマリア像や十字架像のイエスの巨大な山車がいくつも登場し、大勢のひとが担いで沿道を練り歩きます。ゴヤの時代は、こうした祭りの最中に、異端審問で極刑とされた人びとの処刑が、あたかも祭りの余興のように祝いながら執行されていました。キリスト教、家族、検閲、そして祭りの中で処刑する。人間はいくらでも理由をつけて、人の死を祝うのでした。今も、それは「戦争」という為政者の祭り、それを支持する人々の中で繰り返されています。
 家族familiaに、こうした意味づけを持たせたのは示唆的です。教会はよく「家族のようなもの」と譬えられることがあります。それはシアワセな雰囲気を醸し出す可能性があります。しかし同時に、共同体の心地よさの裏側には、共同体の見えないルールが持ち合わせる排他性もあります。
 今日の聖書箇所は、見知らぬ者同士が、知らない言語で自らを表現している風景です。それぞれのアイデンティティを持って、違った生活背景を持って集まっています。これからここで作られていく〈教会〉という共同体に、ルカは何を託したのか。
 この人びとは、あらゆる国から来て、もしかしたら再びまた散っていくのかもしれませんし、残って教会を作るのかもしれません。教会は様々なひとが、自由に出入りしていくところでないといけないのです。留まってもいいし、留まらずに散っていってもいい。扉はいつでも開かれているし、あらゆる人びとが、そこにいる。Familiaのような悪い意味を持ってしまう可能性を忘れずに省みつつ、そのためにも、開かれて、いつも新たにされていくことが教会なのだと、今日の箇所から読み取れます。
 わたしは教務教師なので自分の所属する教会はありません。教会に赴任していなければ、所属はどこにもありません。羽生の森教会は活動停止中なので、所属感はなく、戻れるという感じもしません。長いことキリスト教世界にいますが、もうわたしはどこにも自由に行ける教会がないのかと思うことがあります。こういう事態は自分で選んだことなので引き受けていくにしても、ちょっと寂しいなと思うこともあります。でも所属したいという強い気持ちもありません。どっちつかずです。そういう人は、他にもいるのではないかと思います。人生いろいろです。いろいろな人が、それぞれの人生を背負っている、そういう中で、教会はいつでも戻れるし、いつでも飛び出せるような場所であってほしいと思っています。また出て行くけれど、戻って来るよ。戻って来たら、違う世界の話しを、一緒に話そうよ、というように。それは、きっと見えない聖霊を感じる瞬間かもしれません。

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