※本日滝澤牧師不在のため、礼拝の録音はありません。メッセージはテキストだけを公開します。
8月は平和聖日に始まり、平和を考える大切な月です。第二次世界大戦や、大きな自然災害を体験された方々のことを思い、その心の傷の大きさと深さを思うと、本当に胸が張り裂けそうになります。現在も世界中で激しさを増す戦争や核の問題が、一日も早い解決をするようにと神様に心から祈ります。
今日私が奨励の時を神様から与えていただいた中でお話をすることは、人を信じることができない私が、神様の愛を受け止めるまでの気持ちの変化を、神様に心を開き、皆様にお伝えすることです。奨励というよりは、証に近い内容になってしまいましたことを、ご了承ください。
私は基本的に人のことを信じていません。神様のことは心の底から信じています。しかし神様の愛を信じることすら、最近までできませんでした。その理由は私の幼少期からの体験にさかのぼります。
ご存じの教会員の方も多いと思いますが、私の父はアルコール依存症でした。私は父のアルコールの問題の中で成長することで、致命的な人格形成をしてしまいました。それだけ親の愛情というものは、大切なものだと考えます。
私にとって父はいつも酒に酔っている人でした。父自身、親を早くに亡くし親の愛を知らない人でした。家族をどのように愛したらよいかわからなかったのだと思います。私は父と食卓を囲んだ経験は一度もありません。父は機嫌が悪いと母に暴力をふるうため、家の中はいつも緊張していました。私は父がとにかく怖くていつも怯えていました。私の養育を理由に離婚をしない母のことを考えると、この家がうまくいかないのは皆私のせいなのだ、と心を閉ざした子供時代でした。
17歳の時、ふとしたことをきっかけに、高校時代の友人が地元埼玉の教会の礼拝に行ってみないかと誘ってくれました。小さな教会の、小さな礼拝でしたが、始めて牧師先生という尊敬できる大人に出会いました。その時、初対面の牧師先生にお話しを聞いていただいたことは今でも覚えています。しかし、その教会へは1度行ったきりで続きませんでした。
18歳で看護学校に入学するまで、私は自分の家庭で行われていることは家の恥で、誰にも言えないことだと思っていました。漠然と神様に対する救いを求める「祈り」にも似た感情を抱いてはいましたが、誰にも助けを求めることはできませんでした。たぶん当時の私を支えてくださったのは、私なりに信じ求めていた神様だけだったと思うのです。
17歳の時に初めて教会に行った体験もふまえ、社会人となりいよいよ悩みが限界に達した23歳の時に、職場の近所の教会の看板にあった「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)の御言葉に勇気を出して教会へ行き、1995年、今から30年前に洗礼を受けました。キリスト教的社会背景のない私としては、半信半疑の部分もありました。しかし聖歌隊の奉仕を中心に熱心に信仰の勉強をする中で、詩編96編などに励まされ、神様への信頼が確かなものとなるのを感じていました。そしてマタイの聖句を通して、安心してイエス様に全てを委ねてよいのだと心から思いました。しかし、当時看護師の仕事が忙しく、また簡単には悩みが解決しない現実がありました。次第に社会生活での対人関係の躓きなどをきっかけに、神様から離れてしまいます。
2回目に教会に戻ってきたのは、様々な人生の破れを経験した末の事でした。その時点で私は社会的な信用を失っていたり、大切な家族との離婚を経験したりしていました。教会を離れて15年位の年月が経っていました。人生に疲れ、背負いきれないほどの重荷を背負っていた私が再び通うようになったのはこの四谷新生教会でした。しかし、相変わらず私は神様のことを信じているのに、神様の愛を素直に受け止めることができずにいました。15年の空白も大きく、信仰生活そのものが未熟で、神の愛と赦し、十字架と復活ということについてわからないことだらけでした。
そもそも私は自己中心的で、父がそうであったように、人を愛し、家庭を持つことに不向きな人間でした。誰かを愛しているとしても、それは、愛してほしいから愛しているふりをしていただけで、いつも考えていることは「私を愛してほしい」という渇望でした。神様から注がれる愛でさえ、その愛を信じられなかったのです。神様を信じてはいるけれど、神様からの愛は信じられない。そんな葛藤がずいぶん長く続いていたように思います。
「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。」(詩編55:23)。私は今まで、本当に神様を強く信頼し、思い煩いの全てを神様に引き受けていただいてきました。しかし、私は何度も何度も神様に背き、的外れなことばかりしてきました。中でも父を天に送った後も、父への憎しみを消し去ることができず、自分の罪を棚上げにしていたことは大きな罪だったと思います。
私はある時、ニーバーの祈りというお祈りに出会います。そこには主に対する「委ねる」という気持ちが強く祈られていました。詩編55編にある聖句の中に貫かれている信仰こそが、今の私には必要であり、そのことに気づかせていただいた主イエスの愛こそが、今私が受け止め、信じようとしている神の愛なのかもしれません。
私は最近ニーバーの祈りの全文、特に最後の部分にある「あなたの御計画にこの身を委ねれば、あなたがすべてを正しくされることを信じています。そしてこの人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。」という部分に希望を置いて祈ります。神の愛を受け止めつつある今、私は父のことを祈ることが少しずつできるようになりました。そして、傷つけた人たちへのゆるしを願う祈りもしています。神は大きな愛で私たちを赦してくださいます。そして深い愛を持って支え導いてくださいます。そのことに心から感謝して、信仰生活を続けていきたいと思います。
祈ります
御在天の父なる御神様。あなたがお造りになられたすべてのものに感謝いたします。今世界の平和は揺らぎ、現代社会を生きる私たちも傷つき生きづらさを感じる毎日です。自己中心的な私たちをお許しください。そして他者と共に生きる道を、イエス様と共に歩む道を与えてください。私たちは神の国への強い信頼があります。これからの人生を自分がどう生きたいか?ではなく、神様、イエス様が私たちを通してどう生きるべきか示してくださることを願います。人がどう思うかではなく、神様ならどのようにお考えになるか。人がどう見るかではなく、神様が私たちをどのように見つめていてくださるのかを大事にしていきたい。その神様の愛をしっかりと受け止めて信仰生活を送ることができるように支え導いてください。
そして神様に強く祈らせてください。孤独で辛い思いをする子供たちがいたら、神様が傍にいてその環境から子供たちを救い出してください。世界中の子供たち一人一人がイエス様に愛されて、その子供たちを大切に育てていらっしゃるご家族の皆さん方が、神様に守られ、その恵みの中で愛を持って子育てを続けていけるよう支え導いてください。
このお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致します。アーメン。