エレミヤ7:1−7/使徒19:13−20/マタイ7:15−29/詩編119:105−112
「悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」」(使徒19:15)
神学校で雨宮栄一先生からこんな笑い話を教えられました。
カール・バルトが亡くなり、天国の門をたたいた。門番のペテロは、いつものように、天国に入れるかどうかの信仰と生活についての質問を、バルトにもした。するとバルトは、質問に意欲的に取り組み、反問し、議論を始めた。ペテロはバルトを扱いあぐねて、天使長ミカエルに頼んで、バルトを聖霊のところへ連れて行った。長い時間がたった。ペテロは、雲の背後でますます激しくなって行く声を聞いた。突然、天使長ミカエルが飛び出してきた。ペテロは驚いて尋ねた。「どうしたのですか。まさか、バルトが試験に落ちたのでは?」ミカエルは答えた。「いや、彼ではない。聖霊の方が落ちたのだ。」
この表現は「笑いの伝承 キリスト教ユーモア集」という本に掲載されているもので、雨宮先生はもうちょっと短い、しかもバルト前に天国に入ろうとした人が次々と試験に落ちる、というお話しでした。最後にバルトが門に立ったら聖霊の方が落ちてしまったという、文字通りのオチです。どんな場面で雨宮先生がこの話をしてくださったのかもはや憶えていませんが、この話の中身だけは今も強烈に憶えています。
時々私が「牧師の召命感」について、召命感を持った牧師だと意気揚々と天国の門を開けた時に、イエスが「おまえを呼んだ覚えはない」と言うかも知れないという漠然としたわたし自身の持っている焦りを告白したりするのは、この雨宮先生の笑い話を思い出すからなのです。
今日お読みいただいた使徒言行録は、まるでマンガのような展開です。ユダヤの祈祷師たちが、試しにパウロたちを真似て「イエスによって、お前たちに命じる」(同13)と言う者たちがいた。多分そういうことで悪霊が従ったという経験知があったのでしょう。「祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた」(同14)ということは、無資格の者がおそらく金儲けのために祈祷師の真似事をやっていたということなのかも知れません。ところが、悪霊が彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」(同15)。
マタイ福音書の方では、もっとドキッとするようなことが書かれています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)。「天の父の御心を行う」ということが必要なのだ、と。牧師(である私)もおそらく「『主よ、主よ』と言う者」です。なまじ「召命感」なんてものを持った気になっているから余計に。「『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言う」(同22)、これってまるっきり牧師のことですよね。たぶん天国の門で「おまえを呼んだ覚えはない」と言われ追い返される。言うだけ、呼ぶだけではダメ、さらに「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」としてもダメだとイエスが仰った。では一体どうしたらよいのでしょうか。
「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」(同16)とイエスは仰いました。つまり、本当に正しいかどうか、本当は私たちが自分で見分けることが出来るとイエスは言っているのではないでしょうか。誰でも、自分の本心を知っているのです。口は本心を偽ることが多々あるでしょう。たとえクリスチャンだとしても、本心と口とは一致しないことがたくさんある。ただ、たとえどれだけそうであったとしても、少なくとも私はわたし自身のホンネを知っている。隠しようがないし、知らないふりも出来ない。
どうしたら良いのか、本当はわかっている。だけど素の自分を晒すこと、自分の罪を本当に告白することの勇気を持てない。そういうことなのではないか。
使徒言行録はその後の顛末をこう書き記しています。「人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。」(同17-18)。
素の自分を晒すこと、自分の罪を本当に告白すること。信じる者たちの、そこに生活の刷新があった。使徒言行録はそのことを示しています。それはわたしたちも味わうことが出来る、その可能性を充分に持っているという促しなのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。私は私の本心を知っています。だからこそ逆に、口は心とは別のことを言うのです。しかし神さま、その全てをあなたはご存じでした。その上でなお私をあなたは促してくださっています。主イエスの執り成しと神さまあなたの赦しとを信じて、自分の生き様を刷新することが出来ますように。その勇気を与えてくださいますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。