歴代下6:12−21/1テモテ2:1−8/マタイ7:1−14/詩編143:1−6
「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」(1テモテ2:6)
わたしは牧師ですが、最後の最後のところ、イエスが私の罪のために十字架で死んでくださったという、ある人たちからすればキリスト教の真髄、中心であるそのことを、簡単/単純に受け入れることが出来ないのです。ましてその「死」をありがたがるとか「誉め称える」なんて簡単ではないのです。たとえ疑わないにせよ、ではそうまでしてわたしが生かされる意味があるのかという疑問が解消されないからです。
川崎の幼稚園は相模湖に注ぐ秋山川のほとりに建てられている「藤野芸術の家」という施設で年長のお泊まり保育をしています。その時中央道を降りるのが相模湖東インターで、インター出口を藤野と反対側に向かってすぐのところに「津久井やまゆり園」があります。2016年にいわゆる「津久井やまゆり園事件」「相模原障害者施設殺傷事件」が起きた障害者施設です。事件を起こした植松死刑囚は犯行時、施設職員に「こいつらは生きていてもしょうがない」と語っていたと報じられました。
2020年3月16日に横浜地裁は被告人に死刑判決を言い渡したわけですが、このことを通して私たちは重大な逆説を抱え込むことになってしまいました。それは何か。「こいつらは生きていてもしょうがない」と言って障害者を殺害した犯人である彼を「生きていてもしょうがない」として法律で殺してしまうという手段を用いようとしている。それはつまり、彼の主張、この世には「生きていてもしょうがない」人間がいるということを、私たちが自ら証明してしまうことになったのです。
私たちの日常にも充分に入り込んでくる心の隙間として存在し続ける命題です。この世には「生きていてもしょうがない」人間がいる。例えば出生前診断。そして例えば今回の参議院議員選挙における「日本人ファースト」。極論で言えばこういった事柄は、わたしたちの心を簡単/単純に「こいつらは生きていてもしょうがない」この世には「生きていてもしょうがない」人間がいるという思いに導いてしまう気がするのです。
神谷美恵子という精神科医がいました。いわゆるハンセン病療養施設である長島愛生園で1958年から1972年まで精神科医として働いた方です。ただ、長島愛生園で働いたのは1979年に亡くなった彼女の人生で見たら晩年と呼んでも良い14年でした。しかし、彼女がハンセン病患者と初めて出会ったのは19歳、キリスト教徒の叔父に誘われて「多摩全生園」を訪ねた時だったと言います。まだ医学を目指そうとも考えていなかった彼女に「看護師か医師になってこのひとたちのために働きたい」という思いが芽生えます。1943年には長島愛生園で診療実習を行うのですが、その時に、後々彼女の代名詞にも挙げられる「癩者に」という詩を構想したようです。今日の説教題はその「癩者に」という詩の一節、恐らく最も有名な一節から採りました。
「何故私たちでなくてあなたが?/あなたは代って下さったのだ、/代って人としてあらゆるものを奪われ、/地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。」
一番最初の難問に戻りましょう。イエスは私の罪のために十字架で殺された、そして、そうまでしてわたしは救われた。だからイエスの死はほめたたえられるべきなのか。その「死」をありがたがるべきなのか。
もし今目の前でイエスが過酷な裁判を受け、死刑の判決が下されるその時に、一体私はその場で何をするでしょうか。イエスの裁判では「生きていてもしょうがない」どころか「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、好都合だ」(ヨハネ11:50)として殺されたのでした。大祭司カイアファは自分たちのことを考えてそう言ったのかも知れませんが、結局好都合だったのはこの私も同じなのではないのか。
もしイエスが私の罪のために殺されたのだとしたら、そのことを真剣に信じるのであれば、私たちの口には神谷さんのあの言葉以外のぼらないでしょう。「何故私でなくてあなたが?」。私の罪のために十字架でイエスが殺されたのだとしたら、殺されるべきは私だった。それ以外ありません。「代って人としてあらゆるものを奪われ、/地獄の責苦を悩みぬいて下さった」。
イエスの出来事を神谷さんの言葉で考えれば、今も、「何故私でなくてあなたが?」と叫ぶべきいのちが私のまわりを囲んでいることに気づきます。私のためにいのちを下さる多くの人に私は囲まれて生きているのです。彼らに自己責任があるのではなく、私に代わって、取る必要のない責任を被せられている多くのいのちによって、「生きていてもしょうがない」かも知れない私が生かされている。それを「日本人ファースト」「わたしファースト」だから当然だと、なお胸を張り続けられるでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。私たちはたくさんのいのちの繋がりの中にいます。しかしその意味をはかりかねています。神さま、あなたがそのように世界と人間をおつくりになったことに信頼する者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。