イザヤ49:14−21/使徒4:32−37/マタイ6:22−34/詩編133:1−3
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(使徒言行録4:32)
以前日本基督教団の社会委員を務めていたことがあります。数人いる社会委員の中で一人は日本キリスト教社会事業同盟の理事を兼務することになっていて、たまたま私がその仕事を任命されました。
社会事業同盟はキリスト教を背景に持つ社会福祉事業所が加盟してつくっている団体です。毎年総会が開かれ、また様々な研修会が企画運営されています。
神戸で総会が開かれたときに、参加者の方々と食事やお茶の時間に親しくお話しさせて頂いたことがありました。皆さんそれぞれの施設では施設長だったり主任だったり、重い責任を負っておられる方々です。で、打ち解けたついでにこんなことを聞いてみました。「皆さん、職場では重い責任を負っておられますが、ひょっとして日曜日教会でも何かお役がついているのではないですか?」。役員だったり教会学校の責任を負ったりしていると仰います。「じゃ、ひょっとして日曜日も帰りが遅いとか?」。大当たりでした。
そういうところが「教会あるある」ですよね。社会で責任を負っておられる方々は大抵教会でも責任を負う構造が出来上がっていて、結局重責を担えば担うほど、日曜日ですら安息できない。労働基準監督署レベルで計れば、教会はかなりブラックです。
で、そういう現場にたまたま将来有望な若い人が礼拝に出席しようものなら大変、想像がつきますよね。彼は必ず次の餌食になる。一方彼も将来有望なだけに、教会に漂うそんな空気を極めて敏感に察して、礼拝後にお茶の時間があったとしても、おいそれとは交わりに入りません。たった一杯のお茶を飲んでしまったがために、その後ずっと教会の後継者として狙われ続けるわけで、そんなのたまったモンではないでしょう。
そして、困ったことに、彼らにそういう思いを抱かせてしまう私たちの多くは、私たちの存在がその原因であるなどとは想像もしない。むしろ親切にお茶に誘っているのに、つき合いが悪い、ぐらいに感じてしまっていたりする。この絶望的な感覚の違いはどうしたものでしょうか。
私たちは信仰心から、自分の属している教会が今後も末永くこの場所で続いていくことを願うわけです。これまでそうやって支えてきた多くの人たちがいます。そういう人たちもやがて年老いて、次に担ってくれる後継者がどうしても必要だ。だけど教会は、かつてのように有望な若い方々がたくさん集う場所ではなくなってきた。このままでは教会を続けられなくなってしまうかも知れない。地方にある教会の多くは──特に私の年老いた両親が所属している教会などはその典型です──、存在自体が危うくなっています。そして今では、東京を始めとした首都圏にある教会にも、その津波は押し寄せています。教団も全体的な財政力の低下や会員の減少というデータを持っています──2030年問題などと呼ばれています──。何とかするために「伝道に全力を挙げる決議」とか「青年伝道に全力を挙げる決議」とかやりますが、ほぼ何の解決にもなっていない。何がどう間違ってしまったのでしょうか。
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。」(イザヤ49:14−15)。神はシオンを絶対に見捨てないとイザヤは断言します。女が自分の産んだ子どもを忘れるだろうか、仮に女たちが自分の子どもを忘れることがあったとしても、神はシオンを絶対に忘れはしない、と言うのです。ひょっとしたらこれが教会の原点なのではないかと思うのです。教会とは神さまによって集められたもの、エクレーシアだとは良く言われることです。エクレーシアとは「エク」と「カレオー」の合成語です。「エク」は「〜外へ」という意味で、「カレオー」は「呼ばれる」という意味だそうです。だから「エクレーシア」は「(その場所から)呼び出された」という意味です。「教会」とは神さまによって、それぞれのいのちの場所から呼び出された者同士の群れ、ということになります。つまり、神が呼び出してくれさえすれば、教会は教会として存続し続ける。人間の思いがどれ程悲観的であっても関係ないということではありませんか。
そうは言っても、現実にはそうぢゃないと思います。なぜなら教会を組織として形作っているからです。持ってしまった財産は管理しなければならないし、牧師を雇えばカネもかかる。それ相応に集金しなければ成り立たなくなる、その通りです。でもそれは神さまの責任ではなく、人が建て、人が組織した、人間の責任です。人間の企てを神さまが祝してくださるのなら、その祝福に絶対的な信頼を置く以外にありません。むしろ人間の責任の所以たる事柄をことごとく無くしていっても、教会は教会なのです。神が忘れないと仰ったからです。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(使徒4:32)。これはしばしば「原始共産制」などと呼ばれます。弟子たちに聖霊が下り、動き始めた教会はこうやって維持されてきたのだと思います。でも学者たちはこの「原始共産制」は長くは続かなかったと言います。そうだろうと思います。その後の教会の歴史を見れば明らかです。ただ、ではこの「原始共産制」の精神も全て教会は失ってしまったかというと、そうではないと思います。共有する中味はプラス──畑を売り払った代金──だけではないからです。教会はマイナスも共有し合ってきたのです。この場合のプラスやマイナスはあくまでも人間の価値から見てのことです。つまり喜びも感謝も重荷も苦難も共有し合ってきたのです。その結果、この世的に見れば教会は成功する組織ではなくなったかも知れませんが、必要な人にとってより所となり続けたのです。そこに教会の存立の意味がある。神が教会を用いる意味があるのでしょう。
私たちはこの場所で礼拝を捧げ、神さまからのまことの祝福を受け、その祝福を力にしてこの一週間をそれぞれのいのちの場で生きて、たくさんの隣人と出会い、再び礼拝に集う。うまくいったこともうまくいかなかったことも、それ自体は神が与えてくださった宝。それを持ち寄る場所こそが教会だということでしょう。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。教会を教会としてあなたが建て、導き続けてくださることに感謝します。私たちが今から出かける先々で、あなたが与えてくださった出会いという宝を分かち合い共有し合って、教会の生きたいのちとなさせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。