申命記26:1−11/Ⅱコリント8:1−15/マタイ6:22−34/詩編14:1−7
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)
私は子どもの頃、両親ともクリスチャンでしたが、親族はそうではありませんでしたので、夏になると旧暦のお盆を親戚の家で迎えていました。子どもにとっては楽しい季節でした。
8月12日が盆の入りですので、その日か遅くとも13日には必ず家の前の道にたき火をします。これが「迎え火」というもので、16日まで毎晩焚きました。蒲の穂に油を染みこませて火をつけ、それをたいまつのように掲げて夕刻にお墓参りをしました。13日には玄関か仏壇の側に精霊馬を飾りました。キュウリに割り箸や爪楊枝を刺して馬に見立て、ナスに刺して牛に見立てます。お盆になったら家の前の迎え火を頼りに、早くご先祖さまが家に帰ってきて欲しいという願いを込めてキュウリの馬を、16日の送り盆にはゆっくり帰って行って欲しいという願いを込めてナスの牛をつくるわけです。迎え火が毎晩焚かれていますので、毎晩花火が出来ました。中でも送り盆の16日には盛大にやりました。そしてご先祖さまが無事帰ると、夏も終わりでした。
神さまや仏様にお供えをする、それはどのような意味があるのでしょうか。さすがに我が家にはお仏壇も神棚もありませんでしたから、朝にご飯をお仏壇に供えるというような風習はありませんでした。また、何か頂きものをしたら先ずお仏壇に供えるということも、する場所がありませんでした。でも、親類の家にはそれがあり、必ずそうしていました。終業式が終わると成績表を先ずお仏壇に供えるなんてこともしていました。
考えてみれば不思議です。お仏壇や神棚に成績表をお供えして、頭が良くなることを神頼みしているように見えます。でも、本当はそうではないのですね。むしろ一学期を無事終えることが出来たことを神さまや仏様に感謝する、ということが第一の意味だったのです。頂き物を仏前に供えるのも、別にご先祖さまがおなかを空かしているということではありません。先ず仏壇に供えて様々な縁を感謝し、そのあとで仏様からのお下がりをみんなで分けて頂くということにこそ意味があったのでしょう。そして、お供えという行為を通して、神や仏を身近に感じる。普段は人知を越えるものに常に心を向けるわけにはいかないけれども、お供えをすることを通して神さまや仏様を感じ、生かされていることを実感するのだと思います。
神が私と共にいて下さる、という事実を思い起こし、共にいて下さる神を実感しつつ生きる、ということは、言い換えれば、わたしを生かしている私以外の力があるということです。私たちは誰も、自分の力で生きているのではないのです。多くの人たちとの縁で、そして神が共にいて下さることで、生きていられるのです。そのことに気がついたとき、それ以前とそれ以後では全く私たちは変わるでしょう。神がわたしを生かしてくださるのであれば、このわたしのいのちを先ず神にお返しする、私自身を神さまに献げる、神さまに明け渡すことができるのです。
私たちクリスチャンには仏壇や神棚にお供えするという風習はありません。その代わり私たちはこうやって礼拝をします。礼拝は神さまへの礼儀や、やらなければならないちょっと面倒なことではありません。そうではなくて、礼拝によって私たちは私たち自身を神さまに献げる、お返ししているのです。わたしを生かしているのは私ではなく神だ、と、神さまに私自身を明け渡しているのです。その象徴が礼拝の中で献げられる献金です。
だから、たとえどれだけ僅かなお金でも、「神さまへの少しばかりのお返し」などではありません。「溢れるほどに与えられている神さまの恵みに感謝する」しるしが「僅かばかりのもの」で良いわけはありません。そうではなく、あれは私を捧げるのです。キリスト教の礼拝の歴史を見ると、「献金」とは元々は「奉献」と呼ばれていました。聖餐式で使われるパンとぶどう酒、さらに古くはみんなで食べる食事、あるいは食材を献げていたのです。パンもぶどう酒も自分たちの手でつくり出したものでした。神さまの祝福の下でぶどうが実り、私たちが生かされているから労働が出来てパンを焼くことも出来る。それを礼拝の度に神さまに献げたのです。その名残が献金の祈りで良く唱えられる「清めて御用のためにお使いください」という言葉です。でも今は例えば聖餐式に使うパンもぶどうジュースも自分でつくることは出来ません。お金を出して買ってくるものです。やがて「奉献」の中味を「お金」に変えて「献金」をすることになったのです。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)とパウロは書きました。これはもちろんコリント教会の人たちに、エルサレム教会を助ける経済的援助を求めるための文脈です。でも告げられているのは、我々人間がこのように生きて暮らしている根本に神の赦しがある、神の赦しとは神自らが低くなること、貧しくなることによってもたらされたこと、相対的に我々は高められ豊かになっているのだという事実、だからこそ神にその自分を捧げようという勧めでしょう。それは神による絶妙のバランスとしか言いようがない。神がそのバランスを保っていてくださるという事実を認め、我々も、人間の真ん中で、バランスを保って生きていこう。それは互いが互いを尊重し、許し合い、支え合う生き方への招きでもあるのです。
礼拝それ自体が、先ず神さまに私自身を明け渡す行為で、その最も特徴的なシンボルとして私たちは礼拝の中で献金をします。私自身を献げる行為です。礼拝で私を献げる。それを生涯続けていく。そうやって常に神さまと出会い、神さまに守られ、祝福されながら生涯を送る。それが私たちの歩みなのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。神さまのご采配によって全ては整えられ、いのち溢れるこの世界を築いています。人間の知恵ではなく、あなたのバランスによって全てが支えられていることを改めて知ることが出来ますように。そのあなたの働きに加わるために、わたし自身を捧げることが出来ますように。そして献げられる私自身を、あなたが受け入れてくださいますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。