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2025
01Jun

「証人として」滝澤 貢牧師

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https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2025/06/20250601.mp3エレミヤ10:1−10a/エフェソ4:1−16/ルカ24:44−53/詩編93:1−51

 「あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24:48)

 今日お読みいただいたルカ福音書24章は、ルカ福音書で一番最後の章であることは見ての通りですが、それだけではない興味深いことが記されています。
 例えば、24章の書き出しはこうでした。「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」(23:56−24:1)。その日の早朝から24章は始まっています。復活という現実が初めて婦人たちや弟子たちに知らされる場面が続きます。
 そして有名なエマオでの出来事が続きます。このエマオでのことの書き出しはこうです。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら」(24:13)。どの辺りの時間なのかハッキリとはしませんが、婦人たちが墓に出かけて復活という事実に直面したその同じ日の出来事であることがわかります。
 エマオでの出来事は「二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」(同29)という証言がありますので、その日──つまり初めて復活という事実に直面したその日──の終わり頃に一つのクライマックスを迎えます。その同伴者がイエスだとわかった弟子たちは急いでエルサレムに引き返しますと、弟子たちの間でも復活の主にあったという話が持ち上がっていたというのです。
 そして36節です。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(36)。墓が空っぽだった、復活の主が現れた、エマオまで一緒だったという話しで持ちきりだったところに、復活の主ご自身が現れます。信じられない人もいる中で、自分の傷を見せて、食べ物を食べるというパフォーマンスまでします。弟子たちの心の目がイエスによって開かれて初めて、彼らはそれを喜びのうちに受け入れました。
 さらにその後です。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(同50−51)。場面はエルサレムからベタニア付近に移り、そこでイエスは弟子たちを祝福して天に挙げられるわけです。
 つまり、何が言いたいかというと、早朝に墓が空っぽだったことが知れてから、イエスが天に挙げられるまで、僅か一日のこと、つまり同じ日に今挙げたすべてのことが起こったとルカは書いているのですね。これはちょっとびっくりです。でも、同じ出来事を取り上げている同じ著者の第2巻目にはこう書いてあります。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒1:3)。使徒言行録によると墓が空っぽだったとこが知れてから、イエスが天に挙げられるまでは40日あったということです。これは矛盾したことなのでしょうか。
 今日説教の冒頭で引用した聖書は、イエスのことばです。「あなたがたはこれらのことの証人となる。」(48)。ではわたしたちが証人となるべき「これらのこと」とは一体なんでしょうか。それは大概「これらのこと」の直前に書かれているものです。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」(46−47)。イエスは弟子たちにこのことの証人になるのだ、と語っているのです。
 イエスが苦難を受けてそれから復活したことがまず最初の事柄。救いがイエスの名によってあらゆる国の人々に伝えられることが2番目の事柄です。委ねられた弟子たちはだから十字架につけられてよみがえった救い主を宣べ伝えなければならないのだし、あらゆる国の人々を好意的に受け入れなければなりません。でも、つい昨日まで、イエスの仲間であることが知られたら自分のいのちも危ういと思って、部屋に閉じこもり戸を閉ざしていた彼らが、一夜にして堂々とイエスの出来事を述べ伝えるようになるとは思えません。また異邦人のみならず、社会から隔絶され、差別されていた人たちを好意的に受け入れることも、彼らには今すぐできることとは思えません。2000年後のわたしたちも、特に近年世界中で、自分たちが先ず利益を受け取るべきで、外国人や自力で稼げない者たちは自己責任を負うべき、社会が彼らの面倒を見ることはわたしたちの不利益だという硬直した考え方が支配的になってきているし、わたしたち自身もその考えに同調し平気でいる。それどころかその主張によってわたしもまた利益を受け取っているわけで、このイエスの言うことを弟子たち以上にできない。むしろ不可能なことなのだ言わなければなりません。一日で考え方も行動も180度転換することなど無理だし、「イエスこそ救い主」と告白したにもかかわらず、彼が「証人たれ」と言って託されたことの一つとして実行したことはないでしょう。成功したことはないでしょう。ひょっとしたら今後だって。
 だからこそ復活の主は40日、弟子たちと、つまり私たちと、共におられたということなのでしょう。
 ルカは、福音書の最後にすべてのことが一日で過ごされたように記していますが、それはルカの教会で礼拝の時に献げられる式順に沿った記述だったという学者がいます。そうかも知れません。わたしたちは今日この時間──日の出から夜遅くまでという一日どころか、この場所に集っているのはそのうちのわずか1時間そこらの時間でしかありませんが──、復活の主にまみえ、その主の祝福を受けてそれぞれのいのちの場に遣わされる。そういう1週間の歩みの中におかれています。ルカが慌ただしく一日のことのように記述したその中味はそのまま、私たちの礼拝サイクルの中に活かされているのです。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしたちの主はあなたの右に昇りました。その時主はわたしたちに「証人」としての働きを委ねられました。わたしたちにその自覚が足りませんでした。わたしたちに命が与えられているのは、神さま、あなたの救いのご計画の証人として立てられているということでした。今改めて、証人として立てられていることの意味を考えています。どうぞわたしたちの小さな一歩を祝福して背中を押してください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

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