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2025
18May

「わたしの内にいます神」滝澤 貢牧師

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https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2025/05/20250518.mp3サムエル下1:17−27/Ⅰヨハネ2:1−11/ヨハネ14:1−11/詩編98:1−9
 「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(ヨハネ14:4)
 わたしたちは例えばお祈りの最初に「父なる神さま」と呼びかけることがあります。これはイエスが神さまのことを「アッバ」と呼んでいるからですよね。例えば「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)。神さまとは人間に対して厳しい方だから、定められた律法をよく守り、知らない間に犯してしまったかも知れない罪でさえ赦されるようにと定められたささげものを献げ、神さまの怒りをなだめなければならないと教えられ、全くそのように生活してきている人々に対して、イエスは、神さまのことを「アッバ」、わたしたちふうの言葉で言えば「お父ちゃん」と呼んだのです。みんなはとてもびっくりしたに違いありません。「アッバ」と呼んで良いと言われて嬉しくなった人も大勢いたでしょうが、それはなんだか神さまを汚すような、貶めるような感じがしてイヤだという人も相当いたのだと思います。
 マタイにはもっと激しい言葉もあります。「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」(マタイ23:8−9)。人間の父親のことを「父」と呼んではならないというのです。これなどは、イエスが神さまを「アッバ」と呼ばれたことから考えるとかなり的外れな戒めのように思えます。イエスは、「神さまとはわたしにとってのお父ちゃんのような存在なのだよ」と教えてくれたのに、マタイはそれを全く逆にしてしまって「神以外は「父」ではないのだ」と言ってしまうのです。でも、「アッバ」ではなく「父」とすることで、神さまの権威は回復され、「アッバ」では厭だと思った大勢の人たちを取り込むことには成功したかも知れません。
 それがヨハネ福音書になると、また違った意味で「父」が語られ始めます。今日の箇所はそれが現れている場所ですね。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハネ14:9)。フィリポさんにはちょっと可哀想ですが登場してもらいました。フィリポさんだけがわからなかったのではありません。みんなフィリポさんと同じことを聞いてみたかったのです。だって誰も神さまを見た人はいません。旧約聖書の教えでは、神さまを見てしまったらたちどころに殺されるのです。あまりにも恐ろしいからこそ、神殿の一番奥の奥、「至聖所」と呼ばれるところにいてもらう。神さまが石の板にその指で書かれたモーセの十戒を、大切な箱にしまって、つまりそれが神そのものなのだから至聖所においてある。そしてその部屋に入るのは一年に一回、しかもくじで当たった大祭司という人たった一人です。それなのにイエスは「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(同7)なんて言うのです。滅相もない、わたしは見たことなんてありません。それをイエスさまが見せてくださるというのなら、是非目の前に出してください、とフィリポさんは言っているのです。みんな同じ気持ちでした。わたしだって同じ気持ちです。見せてくれるのなら今ここで示してください、と。
 それに対してイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(同9)と言う。さらに「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(同10)。もうこうなると神さまは「アッバ」ではありません。それどころかイエスが神なのです。
 尤も、ヨハネ福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:1,14)と福音書を書き始めています。ロゴスは天地が創られるその始めから神と共にいて、ロゴスによって世界が創られ、そのロゴスが肉体となって私たちの中に来られた、それこそイエスだ、と言っているのです。「イエスが神」だと1ページ目から言っていたとおりでしょう、と。
 今の時代だって、いや、今の時代だからこそなおさら、わたしたちは神さまをこの目で見ることは出来ません。でも同時に、見えないからいない、見えないから無いとは思っていません。わたしたちは様々なことを通して神さまの存在を感じることができます。不思議な形の大きな岩だとか、何千年も生きている巨木を見た時、それこそが神だ、という人も沢山いますけれども、わたしたちはそういう岩や木を整然と創られた神さまを思うのです。あるいは人のいのちの儚さ、いとおしさを知るときに、いのちをそのようにお創りになった神さまを思うのです。それだけではなく、イエスの生き様、その死に様──より正確に言えばその殺されざま──に、それは確かにむごたらしいことではあるのだけれども、神さまが見えるのでしょう。人間という愚かな生き物の限界と、それにもかかわらず人間を赦し、活かし、立ち帰ることを信じ願っている神さまの姿を、わたしたちはイエスの姿に見出すのです。
 「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(ヨハネ14:4)。「知っているか」と問われれば、わたしたちはフィリポと何ら変わりません。しかし、そのように信じて、主に全てをゆだねることはできる。そして、わたしたちは活かされているのです。その時神さまは、わたしの内にいてくださるのです。なんということでしょう。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしたちの主イエスによって、わたしたちは神さまあなたを知ることが出来ます。主イエスの語った言葉の中に、主イエスの行った業の中に、わたしたちは神さま、あなたを見出すことが許されたのです。それゆえに、あなたを信じ全てを委ねることが出来ますように。その時神さま、あなたがわたしたちの内にいて、わたしたちを生かし用いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

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