教会敷地の南西側はレッドロビンを主とする垣根。そろそろ赤みが薄れてきているが、なかなか鮮やか。その根本にはたくさんのアイビーが伸びている。垣根の中にはドウダンツツジも見え隠れし、既に伸びきった葉っぱしかないが水仙も元気だ。
垣根の下は低いブロック塀で、狭い路肩があって道路になる。そのブロック塀と路肩の隙間に、毎年同じ場所で小さな赤い花が一輪咲く。フリージアラクサ、和名ではヒメヒオウギらしい。可憐な花はフリージアには似ていない気がする。むしろニワゼキショウの背が伸びた感じかな。
ニワゼキショウは原っぱならどこでも見かけるのだが、あのせいぜい5−6ミリ程度の花をつけるニワゼキショウがアヤメ科だと聞いた時は驚いた。そして良く似たヒメヒオウギもまたアヤメ科だという。調べてみるとこの「アヤメ科」というのは本当に多種多様だった。アヤメ、ハナショウブ、カキツバタ、ヒオウギアヤメ、キショウブ、ノハナショウブ、シャガ、ヒメシャガ、ヒオウギ、そして様々なアイリス。アヤメ、ハナショウブ、カキツバタは何回学んでも見分け方を憶えられない。でもってジャーマンアイリスなんていうのもあるのだから。
ブロックの割れ目のようなところから、毎年必ずきれいな赤い花を付けてくれるヒメヒオウギは、なんだかわたしを思いっきり励ましてくれる。
聖書でイエスが「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」と言っている(マタイ6:30)が、「明日は炉に投げ込まれる」ということはほとんど存在価値が認められていないということだろう。でも無価値なようでいて充分に装っている。それこそが神の御心の表れだということだろうか。だから野の花がそこに咲いていることで励まされるわけだよね。
ソウルといい垣根といい、野の草が教えるところは深い。
2025
11May
四谷快談 No.215 野の草
